学部・大学院
幼児教育における根本考察の必要性
森田 陽子(幼児体育、幼児リトミック)
日本女子体育大学を卒業後、都内の大学で勤務する中、附属幼稚園で子どもたちの幼児体育の指導に関わる機会をいただきました。当時、子どもに関する知識が全くなかった私は、子どもたちとの関わりの中で、子どもたちの生き生きとしない姿に、いつしか自分の指導は間違っているのではないかと疑問を持ち始めたのです。
子どもについて学びたい、学ばなければならない。幼児体育とは何をどう伝えればいいのか。子どもを理解するとはどういうことなのか。幼児体育に関わる者として、幼児教育の根本を学ぶために、改めて「子ども」「保育」を専門とする大学院への進学を決意しました。
大学院時代から私の研究のテーマは「近代日本の幼稚園教育における『運動遊戯』の受容と展開」です。明治期に日本に幼稚園が開園されてから今日に至るまでの運動遊戯の史的研究を進めています。幼稚園の史料の中から「運動遊戯」について記載されている部分を探し、その実践方法、子どもたちの様子、当時の保育の展開を明らかにしています。
歴史を紐解きつつ、その流れを確認し、今日の実践へと結びつけています。
日本における幼稚園教育の歴史をたどれば、すでに明治30年代に東基吉の著した『保育法教科書』(1910年)の中で、保育実践における「運動」指導の問題が指摘され、あそびを通して指導すべきことが説かれています。明治時代にもあった指摘が今日の幼稚園教育の現場においてもなお指摘されるというのはどうしてなのでしょうか。
「根本考察が足りない。根本考察が足りないから問題がいつも枝葉のところで動いている」とは、倉橋惣三が晩年、『幼児の教育』(1955年)に記した言葉です。倉橋は、当時の保育界の状況に「根本考察が足りない」と警鐘を鳴らし、保育者に幼児教育の基本的真理をつかむことの重要性を訴えました。しかし、それは今日の私たちにも向けられているのではないでしょうか。
保育者の役割が、その子にしかないものを日々の生活を通じて、その子どもと共に探すことであるならば、保育研究者の役割は、保育実践と結びつきながら、子どもの生活の中に保育としての基本的な真理を見出していくことでしょう。
流行を追う前に、まず幼児体育、幼児教育についての「根本考察」を行うこと、あるいはその姿勢を持ち続けることが保育研究者に時代を超えて求められていることなのだと日々研究を続けています。
時代や社会は変わっても、変わらぬ子どもたちと関わりながら、子どもたちと共に育つために・・・。