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創立者 二階堂トクヨ
二階堂 トクヨ
(中央・塾生に囲まれて)
宮城県三本木生まれ。福島県師範学校を経て女子高等師範学校文科(御茶の水大学の前身)を卒業。張切って赴任した石川県立高女で、国語教育が専攻であるのにもっとも苦手な体操も受け持たされたが、こうした予期せぬ運命と正対して、女子体育を天職とするわが道を拓いて行く。
1915年(大正4年)「足掛四年」に亘るイギリス留学から帰って、一旦は母校へ戻ったものの、「女子体育は女子の手で」「体育は官学に任せてはおけない」との想いを強く抱いて、時代が要求する体操女教師養成のために「一切の官公職を棄て、一切の収入からはなれて」ほとんど独力で「万一の奉仕」=体操塾創立の事業の中に飛び込んだ。
それに先立ってトクヨは個人雑誌「わがちから」(後に「ちから」と改題)を発刊して、女子体育振興を主張し、体操塾創立後はその紹介につとめた。
二階堂トクヨの生涯
1880年 (明治13年) |
15歳で教師の道へ宮城県志田郡三本木町字桑折18番地で、二階堂保治、キンの長女として生まれる。努力家で文学好きな少女に育ち、15歳で准教員検定に合格。 福島師範学校生徒時代 |
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1904年 (明治37年) |
体育との出会い金沢の石川県立高等女学校へ赴任。国語教師を勤めるはずが最も苦手な体操を任される。しかし、体操専門学校出身者であったキリスト教宣教師ミス・モルガンの手ほどきのもと、スウェーデン体操とドイツ体操をミックスした体操を学ぶことができ、三年後には体育教師として高知へ栄転。 女高師助教授時代 |
1912年 (大正元年) |
イギリスへ留学「女子体育教育」にさらに精力的に取り組むべく、イギリスのキングスフィールド体操専門学校に留学し、トクヨに大きな影響を与えたマダム・オスターバーグ女史に出会った。 校長 |
1915年 (大正4年) |
帰国後、女子体育振興を主張帰国後、東京女子高等師範学校教授兼第六臨時教員養成所教授となる。 |
1922年 (大正11年) |
二階堂体操塾を創立「私がやらねば」と意を決し、「女子体育は女らしい優美なものに、母となるべき健康なものに」との思いを胸に、二階堂体操塾を代々木山谷に創立。 設立当時の二階堂体操塾 |
体操塾が目指したもの塾の創立時から生理学・衛生学・解剖学・国語・英語・音楽・心理・倫理など、広範な領域が教育に組み込まれていた。また、塾生の日常的な「整容」にも心を配られた。トクヨの心にある「女らしい教育」とは、男性と対等であり平等である「女性」のための教育であり、目指すところは家庭教育や社会教育までを視野に入れた女子教育にあった。それがイギリスで目にし、体験した寄宿舎での全人教育であった。トクヨは教育と生活の場の一体化を目指して全寮制とした。 設立当時の二階堂体操塾 |
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1941年 (昭和16年) |
二階堂トクヨ永眠享年61歳。 |