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教員系
元旧制女学校・教員

大島(旧姓・片岡) 澄江(1935年度・日本女子体育専門学校卒)

現在無職


トクヨ先生、お久しぶりです。

大島さんは昭和8年に、日本女子体育大学の前身である日本女子体育専門学校に入学しました。当時の学校の様子や、卒業されてからのことなどをお話していただきました。
<2010.09収録>

私もね、耳が遠くなりまして。目は1.0と1.2なんですのに耳は駄目ですね。校長先生(二階堂トクヨ)が、キングスフィールドの学校を出られたということは聞いてましたよ。だけど体育は嫌いでね、こんな学校を建てるはずじゃなかったんだそうです。それが今日まで続いて、こんなに立派な校舎ができているんですからね。

昭和8年に、日本女子体育専門学校(以下・体専)の専修科に入学しました。昭和8年頃というのは、世界中が不景気でね。私は兵庫県の北川の出身で、家は旅館をやっていました。味噌蔵なんかいくつもありましたけどもね、そこに入れるものもないしお金もないんですよ。父は馬や鯉を飼ったりして好き放題していましたけれど、生活は本当に粗末でした。

女学校時代はハードルの選手でした。走ったり跳んだりすることが好きだったものですから、体操の先生が体専出というのもあって体専に行こうと思いました。8つ上の兄が優秀でしてね、学費から何から全部出してくれました。

体専に入って

女学校時代はチャンピオンでしたけれどね、体専に入ると全国からいい人ばっかり集まっているもんだから、もう最低ですよ。オリンピックに行くような特待生の人もいて、「やっぱりたいしたもんだ。私はもう、しっかりした先生になるべきだ」と思いました。

私のクラスは30何人かいました。当時の体専は特待生をうんと取られていて、特待生の人たちは見向きもせずに練習に励んでました。私は「偉いなあ」と思いながら傍で見ているだけでししたけれども、そんな私を馬鹿にするわけでもなし、私たちも特待生を嫉んだりするような人もいなくて、みんな仲良しでしたよ。

松澤初穂さんは、競泳でロサンゼルスオリンピックに行った人ですが、美人でしたね...。その人、60以上もの記録を持ってるんですよ。50メートルの日本記録保持者で、21年間も記録が破られなかったんです。年とってからも86歳まで泳ぎ続けて、もうそんなに長く水のなかにいたから、だから96歳で亡くなっちゃって...。

もうひとり、私の同級で同じ関西出身の人で、ものすごいクロールがうまい人がいたんです。彼女も、90過ぎても泳いでいました。私が「もういい加減にしたら」って言うても、やっかみにしか聞こえませんからね。それでとうとう耳が聴こえなくなりまして、もう今は電話をかけても出られないんです。年を考えたらそんなに頑張らなくてもね、もう少し身体を大事にしたら良かったのになあって思います。

津野さんも、100メートル速かったんですよ。彼女は英語ベラベラでね。英語の時間になると「津野さん、ちょっと書いて、書いて。」って言うと、シャシャシャと書いてくれて、私も津野さんと同じ書体で書いたりしてね(笑)。津野さんは神戸の震災でお家が壊れてしまったんですが、あの方も2、3年前に亡くなりましたね。

他にも、女学校から推薦されて来た人や、高等師範に行くような頭の素晴らしい人もたくさんいました。一方で「この人運動できるの?」というような人や、少しクセのある人など、ほんとうに色んな人がいました。日体からもよく遊びに来てました。

当時は留学生がたくさん、12~3人はいましたね。朝鮮や中国、台湾からも来ていました。薙刀の講習では、私の相手は張 後福さんと言う朝鮮から来た人で、私、いつも褒めてもらってましたよ。私も張さんに朝鮮語を教えてもらったりしました。

勉強のことなど

体専では主学科と副学科があって、実技や体育的なことはもちろん、副学科の方で国語とか英語とか、そういうのも一通りやりましたよ。生理解剖の先生は、慶応から来ていたものすごい怖い先生で、テストの時なんかはもう必死で、寝ずに勉強しましたね。だから今だに生体の様子はわかっていますよ。アウトラインだけですけどね。

でも他の試験の時は、みんなカンニングするんですよ。そうしたらある時、校長先生に見つかっちゃって...。私はその時していませんでしたけど、部屋でぐっすり寝てたら突然先生が入ってこられて、布団の上からガッガッガッガッて足を踏まれて...。バーンて飛び起きたら、「あんたもしてたでしょう!」って。眠い眼をこすりながら「私してません」って言いました。

それで見つかった人が10人ぐらい、本当はもっと多かったんでしょうけど、校長先生一人じゃ捕まえられないんですよ。道を隔てた校長先生のお家の別室へ隔離されて、1週間ほど一歩も外へ出られませんでした。

音楽室が正門のわきのほうにあって、大中寅二先生に音楽を習いました。島崎藤村作詞の「椰子の実」という歌を作曲された方です。校長先生は、各界から最高の先生を呼ばれていましたね。その意味では、校長先生はほんとうに教育者でした。私たちには勿体ないくらい、いい先生揃いだったのに、今になって思えば「どうしてもっと勉強しなかったんだろう」と思います。

スキーもやりました。それも真冬に水着でやるんですよ。それはなんか、新聞社から頼まれたそうで...。和文タイプライターやそろばんも習いました。「なんでタイプライターなんか...」と思いましたけどね。軍事訓練もやりました。兵隊さんに教えてもらって。「伏せ!」とかね。まあ、今考えますとね、何であんなものをやったんでしょうね?

トクヨ先生の思い出

二階堂トクヨ校長先生には色んな事を習いました。号令のかけ方とかもね。でも先生ご自身が体育をするということはないんですよ。見本を示してくだすったことはなかった。肋木にぶら下がった姿勢のまま、先生のお話が延々と続いたりすると、私はもう顔が青くなって「死ぬか」と思いましたね。

思い出すのは、校長先生が富士山へ登られたお話とかね。その時に「我、富士より五尺高し」と言われたと。それは聞きました。確かに五尺高しですよね。

みんなを講堂に集めてお話されていた時、みんな足を少し開いて立って聞いているんですけど、先生のお話があんまり長いもんだから、ひとり倒れたんです。それでコイケさんという子がサーッと近寄って医師室に連れて行こうとしたら、「ほっときなさい!」と。それでほっといたら、またごろごろと起きてきました。

それでまた講堂の板の間が、汗でずるずる滑るんですよ。ちょっと油断するとビヤーッてなるから、寄宿舎まで廊下を這って帰っていましたね。

昭和9年に、日米野球を観に行きました。ベーブ・ルースらが来た時です。校長先生は、そういうことは率先して連れて行ってくださいましたね。早慶戦もいつも行っていて、早稲田の歌だの慶応の歌だのみんな知ってますよ。歌舞伎にも連れて行っていただきました。あれは良かったですね。やっぱり校長先生が文学少女だっからでしょうか。

校長先生はいつも同じお着物をお召しになっていて、それも気の毒なくらいヨレヨレなのを着て、そうして鼻をたらした猫を可愛がっておられました。ある時、授業中、演壇の高い所へ上がっていて、もしゃもしゃとパンツがずり落ちてきたんです。みんな、思わずぷぅーっと吹き出してしまって(笑)。

先生は「笑いたければ笑いなさい!」って言うて、こうやってあげようとなさるんですけど、また落ちてきて...。紐が切れちまってるから、もうどうしようもないんですよ。しかも赤いパンツですよ。ハタチにもなってない時でしょう。もう私、可笑しくて可笑しくて「殺されてもいいから笑わせて」と思いました。

先生はカツラを付けておられたのですが、それも安物だから、前がここにいってたりこっちにきたりしていてね。ある時、先生がお風呂に入ってらっしゃる時に、その頭を見て、私、「男の人が入ってる」と勘違いして飛び上がって逃げました。それでまた怒られてね(笑)...、世話ないですけど。

一緒にお風呂に入るのではなくて、風呂炊きをするんですよ。お風呂は毎日じゃないですけど入れさせてもらってました。でももう、ざんぶりこですよ。

校長先生はどういうことか、朝鮮の方達を「朝鮮さん」と呼んでおられました。あの当時、日本に留学して来るのはみんな良家の子女ですよ。張さんが「校長先生が私たちをそんな呼び方する」と、私に不満を言ったことがあります。あの当時は日本人全体が朝鮮の人たちを異物扱いと言うか、「朝鮮人は別口だ」という考えを持っていた時代でしたね。

寄宿舎生活

当時、寄宿舎は10室までありました。不思議なことに、私は正門から学校に入ったことがありません。正門は、駅から行くとあっちのほうになりますからね。学校に入る時は、窓をトントンと叩くんです。そうすると向こうから生徒がプッと顔を出して、「どうぞ、どうぞ。」って半間の板戸を開けてくれて、いつもそこから出入りしていました。

その板戸の横っちょに、お便所が5つぐらいありまして、その窓のところに物売りが来るんですよ。ピンポーン言うて。みんなお腹がすくもんですからね...。当時、寮費が21円で校友会費が1円でしたか。私は30円送ってもらっていましたから、8円が自分の小遣いですけど、1カ月に8円じゃどうしてもそんなにモノを買うことができないんですけどね。

校長先生のお母さんが、田舎から食事係を3人ほど連れて来ておられました。その食事たるや、大根だのニンジンだののお漬け物が2切れほど、ツンとついているだけで、あとはご飯が山盛り。それも麦のブルブルがたくさん入っているようなね。

それでみんなもう汗かくから、辛いものを欲してお漬け物にお醤油をかけるんです。入り口のところにお醤油が10本くらいあってね、ある日、お醤油をかけたら水みたいでした。なんと、お醤油に水が混じっているんです。その時はみんな怒っちゃってね、お醤油をみんな草むらのなかへ捨てちまいました。

校長先生がまかないさんのほうに行って「何をしたんですか?」と聞いていました。そんなもので、3時から5時まで外出が許されて、みんな、うどん屋に行ってうどんをかきこんだりしていました。私はお金がないから行きませんでしたけどね。そんなことでその日はまあ収まりまして、醤油も元に戻りました。

それとか、たくあんを嫌いな人は少し残しますね。そしたらそれを洗ってから小さく切って、また晩にだしたりするんです。夜は、夜食が出ました。食パン1枚にマーガリンが塗ってあるだけで、そういう食事でしたけどね、当時の人はお粗末だなんて思ってないんですよ。今あんなもの出したらね、本当に誰も食べませんけどね。

洗濯は、ポンプでゴッチンゴッチンやっていました。洗濯と言えば、上等のシュミーズを兄に買うてもらって、喜んで洗って干していたら一晩で盗られちゃって...。泣きましたね。あんなところに干しておいたから無理もない、私が悪いんですよ。

水を飲むのも、深い井戸からポンプで汲んでいました。消毒も何もしてなかったけど、誰ひとり気にしないで、病気もしませんでした。みんな丈夫だったんでしょうね。ポンプの頭を「校長の頭とまちがえた!怖かった!」なんて言って、みんなで逃げたりしてね(笑)。

そして9時になったら消灯です。寄宿舎の部屋は、板の間にゴザが敷いてあって、机がちょうど膝くらいの高さで、夜になると机を押し入れに入れて、ゴザの上に田舎から持って来た煎餅布団を敷いて寝ていました。

夏休みから帰ってきたら、雑草がこーんなに生えているんです。それでもみんなだまって何日もかけて刈っていました。廊下に穴が空いていてもポーンと飛んで、ちっとも文句は言いませんでした。醤油の他には言ったことなかったですよ。

食事も貧しく、着るものもボロで、靴も揃っていず、板の間に煎餅布団で寝る、そんな生活でしたけどね、誰も文句ひとつ言いませんでした。「あの人、こんなのはいてる。」とか、「あの人の服、破けてる。」そんな会話いっさい聞いたことがなかった。そういうところは、あの時代の方達は偉かったと思いますね。

学校経営のこと

当時十九、二十歳でしたから、そこまではわからなかったですけど、今になって思いますとね、経営はそうとう厳しかったと思います。まったく特待生をあそこまで取らなきゃね。何しろ、そういう人たちから授業料は取らないんですよ。

もちろん我々からは授業料は取られましたよ。いつも学期の始めに納めていました。すると校長さんが指輪をくれまして、それは嬉しかったですね。それでも今思うと、足がついてこないような人やボーっとしている人、そういう人達全部収容しないとやっていけなかったんですね。

思い出すのは校長先生が、「どなたかお金を貸してください」って廊下で大声を出しておられて...。本当によほどのことだったんでしょうね。私も貸してあげたかったけど、私には貸すようなお金はなかった。

校長先生のお友達という人を見たことがありません。校長先生は一流の教授陣を集める人脈はあったわけですが、何でも話せるようなお友だちはいなかったようですね。そういう方はひとりも来られたことがありません。普通なら誰かに相談するんでしょうけどね。あの性格が人を寄せ付けなかったんじゃないかと思います。

人見さんが入って来て活躍をしまして、人見さんはあれだけの記録を持っていて偉い方なのに、校長先生とはあまり仲が良くなかったんですね。先生はあの方を後に継がせたかったらしいんですのに、人見さんは学校を出て行ってしまわれました。

その後にね、私の一級上でしたけれどね、砲丸投げやら円盤投げの選手で矢田さんという人がいました。矢田さんは後を継ぎたかったんですが、校長さんと喧嘩をしたらしく、それ以来一度も学校に寄り付きませんでした。校長さんも意固地のところがあって、人見さんでも矢田さんでも、高い所からこうやって言われるとね...。

それで跡取りもなしになって...。でも校長先生はそれがわかっていたんでしょうか。お墓もちゃんと拵えてらっしゃるから、やっぱり絶えることをわかってらしたんですね。

卒業してから

昭和10年、ハタチで卒業しました。卒業写真集を持って来ました。私、ここに写っています。私たちのクラスばかりじゃなく、他のクラスもうんとこさ入ってます。みんな袴はいてね。ベルリンのオリンピックに行った人もいますよ。競技しているところもたくさんあります。私もハードルやっています。

でもこれをいただいた時、「校長先生、非常識だわ」と思いました。なぜかと言ったら、見てください。校長先生だけお顔が写ってないんですよ。こちらにお尻をむけている。こんな卒業写真あります?でもそれで怒ったのは私だけです。他の人たちは気がつかなかったんですね。

今考えてみると、先生はやっぱり頭は白いし、カツラは安物だし、そして器量はあまりいい方じゃなかったし、「お顔を写すのがお嫌だったんだろうか?」と思います。いや、笑い事じゃないんですよ。これ変でしょう。そしてこれは卒業証書です。何十年も前のようやく見つけて持ってきました。

卒業してから、大阪に下宿して代用教員をしていました。最初は、高等科で半年ほど教えました。ちょうどその時分、ラジオ体操が普及してきて、3時から校庭で上級さんを集めて教えていました。それが済んだら、今度はまたコックさんに1から10まで教えます。夜になったら、今度は「薙刀を教えてくれ」と言う人がいて、もう本当にひっぱりだこでしたね。

半年後に大阪の女学校に転勤しました。代用教員ですから安月給でね、確か65円だったと思います。22歳で結婚して教員は辞めました。そしたらすぐに戦争です。子どもが3人いまして、当時は東京の世田谷に住んでいました。B29が爆弾を落としたのも、みんな知ってますよ。

大中先生からお手紙をいただいて、戦争がすんでから大中先生を尋ねました。お葬式にも行きました。音楽家の方が何百人といらしていて、私もお香典を置いて帰ってきました。

体専で色んなダンスをやっていましたが、卒業してから私は歌舞伎座だの国立劇場だので踊らせてもらいました。世田谷区民会館で踊ったこともあります。だけど、踊りは家が一軒建つぐらいお金を使いますからね、今はもうやめて海外旅行に行っています。

もう11ヵ国くらい行きました。イギリスからパリからあっちのほう全部、オーストラリアはエアーズロックに行きました。万里の長城にも2回も登りました。孫と2人でトルコへ行った時はカッパドキア、あれは本当によかったですね。

同窓会

卒業してからも定期的に集まっていました。平成10年は京都でした。私も一万円持って行きました。そうしたらあちこちで忘れ物とか、「お財布置いてなくなった」とかおっしゃる方がいて、私もあっち探しこっち探してもうくたびれちゃってね。

みんなもう付き添いがついてないと出てこられないし、遠方からわざわざ出ていらっしゃるのは大変だから、私は松澤さんに、「年が年なんだから、もうやめましょうよ」って言いました。「そうしてもいいね」って松澤さんも仰るので、私がお手紙を書いて全国に送りました。

それからですよ。皆さんパタパタとお亡くなりになって...。「やっぱり同窓会に出ようとして一生懸命生きていたのかな。悪いことしたな」と思います。ほんとにみんな元気でしたのにね、亡くなっちゃいましたね。何で私だけ生きてるのかしら?

きっと、みんな運動のしすぎですよ。シロハシさんなんか、植木屋さんが入ってますのに、庭のお掃除をしてて倒れて亡くなって...。そのふた月ほど前に、同窓会で元気で会ってるんですよ。やっぱりみんな身体の使い過ぎだわ。まったく、とことんまで身体を使うという訓練を受けていましたからね。

ほんとにもう死にものぐるいで、むちゃくちゃ猪突猛進でしたね。それでも仲良く、夜はもうみんなでべーんと寝て、行儀も何もなかったですけどね。そして、ちょっとでも歩き方が悪いと、校長先生に酷く叱られました。

だから今でも近所の人たちに、「大島さんはいつも姿勢が良くてシャンとしてらっしゃる。」と言われます。そない言われると、背中丸くして歩けないですよ。「体育大出てるんだからシャンとしなきゃ」それが年中頭にあります。

今日、学生の歩いてる格好を見ると、そういう姿勢が見られませんね。こういう学校に入るっていうことは、もっとがむしゃらにやらなきゃだめです。体育大学ならもう少し体育大学らしい歩き方や動作をしてもらいたいと思いますね。

私もこの年になったら「校長さん、あの時はこうだったんだ」って、わかりますわ。私がみなさんに言っておきたいのは、これだけの学校をね、経理をして、建ててくださったのはありがたいことだと思います。誰が体専を継いで下さろうと、続けていかれるのがいちばんです。無事に借金しないで続いてもらえれば、私達は嬉しいですわ。

大島(旧姓・片岡)澄江さまにおかれましては、 去る平成27年にご逝去されました。 大島さまには、たいへん貴重なお話を聞かせていただきました。 ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
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