資格・就職
- 販売・接客系
- コンビニ・副店長→学生寮
紺野 友香(2004年度・健康スポーツ学専攻卒)
■学生寮運営会社勤務
花の3期生、ちょっとスゴイ!
紺野さんはコンビニの副店長を皮切りに、マーケティングリサーチ、留学、アパレル輸出会社と、色んな経験をしてきて、現在は学生寮で働いています。学生時代の就活のこともお話してもらいました。
<2014.09収録>
最初の会社は?
コンビニエンスストア運営会社です。営業で入って研修を積んで、すぐ副店長になりました。
いきなり副店長に?
体育大じゃないですか。挨拶だけは得意なので、研修した店のマネージャーが私の挨拶を聞いて、副店長に抜擢していただいたんです。研修はやっと半分超えたぐらいだったんですが、無理矢理終わらせて辞令が出ました。いきなりの副店長は正直不安でしたが。
駅下に新しくオープンした直営店で、1日のお客様は3000人ほど。営業本部長が近所に住んでいて、配属されて間もなくコーヒーをご馳走になりながら、「この店を西東京エリアいちばんのモデル店にしようと思っている。」と言われました。
営業本部長は出勤前には必ず売り場を見に来て、帰りにも来て、休みの日もテニス帰りに立ち寄られました。そしてちょっとでも「?」って思ったら、すぐにゾーンマネージャーに連絡が入って、そうするともうすごい騒ぎになるんですよ。
接客態度も他店のお手本にならなければならない、イベント販売も他店の参考になるような売り場作りをしなければいけない...。求められるもののハードルがめちゃくちゃ高かった。
それは新卒には荷が重いですね。
アルバイトは30人ほどいました。新店なのでほぼ全員未経験者で、アルバイトが仕事を覚えるまでは自分も売り場に出て、その頃から始まった試食販売やイベント販売の盛り上げなど何でもやっていました。
高校生や大学生のアルバイトは「この時間までおでんの声かけやって、数字がいったらご褒美買ってあげるよ。」とか言うだけで頑張ってくれ、それがきっかけでおでんに興味を持った子がいておでんの仕込みだけは異常に熱心にやっていました(笑)。
ただ同年代のアルバイトの扱いは苦手で、こっちは社員という立場だけど、向こうもそれぞれ違う経験をして来てるじゃないですか。「自分の方が知ってる。」「自分ならこうする。」と主張されると、新入社員の私は強くも言えず店長に頼りました。店長は28、9歳の男性で、彼は逆に「年上のパートさんの方が気を遣う。」と言っていました。
私は毎朝7時に来て、本来は5時までなんですけどその時間に上がれるはずもなく、いつも夜の10時ぐらいまでやっていました。いくらでも仕事があり、何かあるとすぐに飛んでいかなければならないので、心身ともに休まらないんです。
納品物を運んだりして、学生時代にバスケットボールで痛めた腰をまた悪化させてしまい、病院に通いながら仕事を続けていました。1年たった頃、「このままだとお店に迷惑をかけてしまうから、辞めた方がいいんじゃないか?今ならまだやり直しきくし。」と思って、マネージャーに相談しました。
そうしたら「ちょうど空きが出る部署あるのでそこに移らないか?」と言われて。後で違う先輩に聞いたら、マネージャーが人事に「今、辞めさせるのはもったいない。もっと適材の所があるなら。」と言ってくれたらしく...。ありがたいと思いました。
新しい部署は?
本社の商品企画室です。社員5000人いるんですけど、全く知られてない部署で、スタッフは私を含めて4人だけ、しかもみんな入社2、3、4年目でした。もちろん上司はいるんですけど。
仕事はマーケティングリサーチです。デパートや専門店など色々な業態を見て回って、商品開発のアイディアや、売り場のヒントになるものを探して報告するような仕事です。会社の既存のやりかたにどっぷり浸かっちゃう前に、新しい視点がほしいということで新設された部署でした。
毎朝、今日はどこを回ってどうするという計画書を出して、すぐに会社を出てそのまま直帰していました。他の社員からは「何やってんだ、アイツら?」みたいに見られていたと思います。毎週、回って得た成果を、商品本部長を始め各部署の担当者、役員クラスの前でプレゼンテーションします。そこで収穫がないとは言えず、必ず何かを吐き出さなければいけませんでした。
その頃から、コンビニ業界は独自ブランドにも力を入れるようになってきて、会議の席で仲良くなった商品担当の人とバレンタイン用のチョコレートを試作したり、「こうしてみたんだけど試食してみない?」と呼ばれて会議に出席したりしていました。
自分の発案がきっかけで商品化されるのはうれしかったのですが、実際に商品を開発しているわけではないので、仮に売り上げが良くてもそれは開発者の評価になるだけで、自分達の評価対象は必ずしも明確ではありませんでした。
仕事自体は楽しかったのですが、4年目に入って色んなことを考えるようになりました。「自分ももうすぐ25歳、やり残してきたことはなかったか?」と思いました。
やり残したこととは?
大学の卒業旅行で友達と韓国に行って、現地の人と知り合いになって一緒に飲んだり、思った以上に中身の濃い旅をしました。勤めてからも夏休みにひとりで韓国に行ったりしていて、ある時博物館に行ったんです。そこで衝撃を受けました。
日本の植民地時代に政治弾圧された人を収容した刑務所を博物館として残しているのですが、当時の写真が展示されていて、死刑執行用の椅子がガタンと落ちる瞬間を体験出来たりするんです。中学生達が見学に来ていてキャーキャー騒いでいたりするですが、その中ですごい真剣な目で見ている子がいて、私はその子とじっくり話してみたいと思いました。でも言葉が分からないので話しかけることも出来ず...。
中学生の頃から「留学したい。」と思っていました。「韓国だったら自分のお金で留学できる。」そう思ったら止まらなくなって、マネージャーに「韓国に留学するので辞めます。」と言いました。部長に「やりたいことを止める権利はないが、本当に意思は固いのか?」と訊かれ、「もう決めました。」と言ったら、同業の韓国法人の部長を紹介していただきました。
「困ったらこの人に連絡しろ。」と言っていただき、実際に向こうでお会いもしました。辞める社員にそこまでしていただいて、「すいません。」という気持ちと同時に「本当にありがたいな。」と思いました。
韓国での留学先は?
ソウルのヨンセ大学附属の語学学院です。最初は挨拶くらいしかできなかったのが、1カ月ぐらいたつと簡単なことは理解が出来るようになりました。3カ月ぐらいからちょっとずつ話せるようになって、最初は下宿だったのですがアパートを借りました。家賃は日本の半額くらいでした。
テレビでクレヨンしんちゃんとかドラえもんが韓国語でやっているのでそれを見て簡単な会話を覚えたり、電車に乗って隣に座っている人たちの会話を聞いたり、またソウルによくある交流センターで韓国人の子を紹介してもらってお互いに言葉を教えあったりしました。
半年経つと日常会話は7、8割は出来るようになりました。ちなみに文法は日本語と一緒で、日本語、韓国語、モンゴル語、トルコ語は、同じ並びらしいです。
留学生の友達もでき、仲良くなった韓国系ドイツ人の子に会いにドイツに行きました。「日本人なのにどうして韓国から来たの?」と税関で訊かれ、私は第1外国語が完全に韓国語になっているので英語がうまく話せず、友達に電話して通訳してもらいました。ドイツにいながら2人の共通言語が韓国語なんです。
語学学院を卒業して、いったん日本に帰りました。それからまたすぐ、今度はワーキングホリデーでプサンに行きました。
プサンでの仕事は?
日本に服を輸出しているアパレル会社で1年間働きました。そこで日本語の通訳と、日本向けホームページの商品説明のサイトを作ったりしていました。プサンは韓国第2の都市で、方言に慣れるまでは大変でした。
給料は日本に比べたら半分以下でしたが、生活費も安いので生活は全然苦しくなかった。ソウルに比べても物価が安くて、カルグクスって言う日本のすいとんみたいのが、100円台でおなかいっぱい食べられるんです。キムチとかがお替わり自由ですごくおいしかった。家賃はワンルームだと管理費込みで3万円切るぐらいでした。
社長は6歳上で社員は同い年が多く、すぐに仲良くなりました。あっちの文化の特徴として、「おひとり様」っていうのがないんですよ。ご飯を1人で食べるとか考えられない。お昼ご飯もみんなで食べに行って、全部社長のカードで落とす(笑)。「いくらまでにしろ!」って言われるんですけどそれがもう当たり前でした。
月1で必ず飲み会があって、まず肉を食べて次にマッコリのお店に行って最後にカラオケに行って。それも全部社長のカードで落とす!「ヤバい、仕事どうする?」とか言いながらエンドレスで朝までいたこともありました。そこで働いてた社員はみんな日本のことが大好きで、日本語を勉強している人もいました。
昔の日本みたいな雰囲気があって、「私たち=ウリ」っていう括りが大好きで、「私の会社」じゃなく「私たちの会社」って言うんですよ。「私たちの国(ウリナラ)」とか。「私たち」っていうのが強すぎて大変なこともありました。ひとりになりたい時になれない。体調が悪くて寝ていても、心配して訪ねて来てくれるのはいいけど「何かいる?どう?」「いやもう寝させてくれー。」みたいな(笑)。
反日を感じたことは?
それがソウルにいた時もプサンにいた時も、反日を感じたことはほとんどなかったんです。タクシーに乗って、韓国語を喋っていれば日本人とバレないんですが、たまに文法とか発音を間違って「あれ?韓国人じゃなかったの?」となり「日本人です。」と言うと、「親戚が在日で日本に住んでいて自分も行ったことあるよ。」とか「日本語で一番言われて嬉しい挨拶って何?」とか聞かれたり。
唯一、「やっぱり反日感情はあるんだな。」と思ったのが、学校に通っていた時に、歴史の授業をやっていた先生が、「日本人がかつてしたこと。」について、日本人が授業を受けている中で話された時です。
違う先生と話をしていて、私よりちょっと上の世代(今の35から40歳ぐらい)は、反日的な授業が多かったらしくて、その先生にもハッキリ「私は日本人が嫌いだ。」って言われました。でも「あなたのことは好きだ。」とも言われました。「日本人とひと括りにするのは良くないかもしれないけど、それをとっぱらってしまえば個人としては好きだ。」と言われたのが印象に残っています。
3.1独立運動とか私の知らないことが色々あって、私達はそういう教育を受けてないし、教科書レベルで知識が違うから、日本がどうとかあっちがどうって話していても平行線なんです。ただ「韓国ではそういう勉強をしてる。」とわかったのは良かったと思います。
いちど友達と話していて、私が「立場が違うと話の大きさも違うね。」みたいなことを言って喧嘩になったこともありました。「今のは言い方が悪かった。」とあやまったり、そういうのも含めて友達とは色んな話をしました。
私の場合はそんな感じですが、中には独立記念日の時に歩いていたら、いきなりどつかれたという男の人もいました。
韓国で働いてみて?
韓国人には「何かを成し遂げよう。」という気概があるような気がします。「人に雇われるくらいなら小さな会社の社長になりたい。」と言う人が多い。その点は日本人よりパワフルです。ただ勢いだけで突っ走っちゃうところもあって、自分の意見を話しだしたらもう止まらなくなったりします。そこに日本人の慎重さや計画性が備わったら最強かもしれません。
韓国には徴兵制があって、男性は必ず、30歳までの間に2年間、軍隊に行くんです。任地は様々ですが、軍服と軍隊用のキャッシュカードを支給されて、携帯も持っていけません。軍隊に行って1週間ぐらい経つと、着ていた私服が実家に届いて、親たちは「ああ、軍隊に行ったんだな。」って実感するらしいです。
プサンにいた時、ヨンピョンドってところで北と南の間で砲撃戦が始まったことがありました。仕事中そのニュースがラジオでやっていて、1個下の男性社員が「これは準備しなきゃ。」って言っているんですよ。徴兵以外にも何かあった時は予備軍に呼ばれるらしく、その時は男性社員は気が気じゃなかったみたいです。
北と南は休戦状態で、戦争は終わっていないということに今さらながら驚きました。男性は兵役のせいで社会に出るのが遅く、大学院に行く人も多いので、2年ぐらい休学して自分で学費を稼いでまた復帰する人はざらで、職場にも休学中の学生が働いていました。
日本に戻って来たのは?
プサンでは仕事も私生活も充実していて、向こうでビザを出してくれるという声も掛かったんですが、自分の中でワーホリのビザが切れるまでと決めていたので、2011年3月5日、震災の6日前に日本に戻ってきました。戻って早々震災が起きて、韓国の友達から「大丈夫?」とすごく心配されました。
とりあえず日本円がないので、地元の教育系出版社で物流事務の仕事を見つけ、腰掛けのつもりで働き始めました。
その頃私は韓国人の野心的なところに影響されて、「もう1回マーケティングをちゃんと勉強したい。」と思い、進学も考えていました。それを日本でやるか韓国でやるか、色々考えているうちに時間が過ぎていき、結局何をしたいのか分からなくなってきて...。
社会人をやりながら何かを変えるってやっぱり大変で、仕事を1回辞めるとかリセットしないと出来ませんよね。「学生のうちなら失敗をしてもいいし、もっと色々やっておくべきだったな。」ってつくづく思いました。
韓国語を使える仕事がベストなんですけど、探してみてもウェブ系でPhotoshopの技術が必須だったり、なかなか踏み出せず...。たまに友達の買い付けで韓国に一緒に行ったり、翻訳を手伝ったりするくらいで。
そんな感じで3年が経って、30歳も超えて、「これじゃいけない。韓国語にこだわらず挑戦できるような仕事があったら転職しよう。」と思いました。それから半年以上かかって、今の会社が履歴書を出した3つ目の会社です。
今の会社は?
学生会館を運営している会社に勤めてます。板橋にある女子学生会館で、学生は400くらい、大学、短大、専門学校、大学院と色々です。台湾とか韓国、アメリカからの留学生も何十人かいます。
普段はカウンターにいて学生と挨拶をするくらいですが、悩み事の相談を受けることもあります。Aさんで上手くいったことがBさんだとダメだったり、ましてや留学生だと伝えるのが大変だったり、いつも状況が違っていてルーチンワークじゃないので仕事は面白いですよ。
働いていて、なぜかニチジョのキャリアセンターを思い出すんです(笑)。
キャリアセンターを思い出す?
私の頃はまだ就職課でしたね。窓口に行くといつもゴドーさんがいて(今もいらっしゃいますよね)、「久しぶり!」とか「どう?元気だった?」とか笑顔で接してくれました。私は短大からニチジョに編入してきて友達もいなかったのですが、同じ編入組の双子のキクチ姉妹に「面白そうだから。」と誘われて行ったのが、就職ゼミでした。
私は、「どーせ...。」みたいな感じの覚めている学生だったのですが、就職ゼミの先生の、アツくて情熱的でパワフルで、自分の体験に基づいて思ったことをハッキリ、イエスノーと言ってくれる、そんな大人がすごくカッコ良く見えました。
私はそれまで教員になる気まんまんだったのですが、「こういう社会人のパッションや姿勢はすごい。」と思って、「教員以外の道もあるかもしれない。自分の可能性を消さずに一般企業も見てみよう。」と思いました。
就職ゼミを受けている学生はみんな負けず嫌いで、先生にボロクソに言われたりすると、悔しくてアツくなり、「次は絶対。」と頑張っていました。そこで挫折するのはみんな絶対に嫌だったんです。そして最終的に残ったメンバーは、双子のキクチ姉妹、宴会部長のトモ、優等生のコボリ、リンゴちゃん、サトコ...、みんなそれぞれに個性的でした。
オリンピック記念青少年総合センターで合宿して自己PRを作った時、「私たち何で生きてるの?」みたいなところから始まって、朝まで話をしたのを昨日のように覚えてます。大泣きしたり大笑いしながら気がついたら朝になっていた。あの合宿から、お互い弱音もはけるような関係にちょっとずつなってきたと思います。
ちょうどその頃、僕は「WILL」を作っていました。
双子のキクチ姉妹が載りましたよね。サトコとコボリも出ましたね。
コボリさんは靴底をすり減らしながら就活していました。就活の資料を持って来てくれたことがあったけど、ちょっと見切れないぐらいたくさんあって、こんなにやるんだってビックリしたことがあります。
彼女はそんな努力も見せずにいつも笑っていました。たぶん陰ではすごい努力をしていたんだろうなと思います。実際、就職ゼミの中ではいちばん内定を決めていました。
紺野さん自身の就活はどうでした?
私が受けたのはサービス業が多かった。そういう時代だったのかもしれません。確か、1個下は金融系とかたくさん受けていましたよね。
ゼミで鍛えられたので、グループディスカッションとかも全然余裕でした。コンビニ会社の時も、話がポンポン進んでこの人たちと同期になったら楽しいなと思って、みんなでお茶して帰ったりしていました。最終的に内定は6つ取りました。
いつの間にか、私に取って就職課が学内でいちばん居やすい場所になっていました。用がなくても「ちょっと顔出していこっか。」とか、卒業式の時もみんなで集まって写真を撮りあったりして、アルバムの写真はそんなのばかりです。本当に理解しあえた、良きライバル同士だったなって思います。
今もトモのことを例に挙げると「海外勤務、おめでとう。」と思いつつ、コボリも子どもができてまた働きたいっていう願望もありそうだし、そうやってみんなが向上心を持って頑張っているのを見ると、「私も負けてられないな。自分もいい報告ができるように頑張らねば。」って思います。
なかなか会えなくても、近況をちらっと聞くだけでそういう気持ちが湧いて来るんです。あの頃一緒に戦った仲間、本当に戦友です。
あの頃の就職課はひとつの時代だったんですね。
ほんとにそう思います。1期生、2期生の先輩方がベースを作っていただいて、たぶん私たちの時に花開いて...。いちおう「花の3期生」って言われているので、私達(笑)。最近顔を出せてないのでまた行きたくなりました。来週あたりに顔を出そうかな...。