資格・就職
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佐々木 恵里(2008年度・健康スポーツ学専攻卒)
■競技団体勤務
夢の探求、終わらない。
佐々木さんの大学時代の夢は、柔道整復師になることでした。いろいろなことがあって夢は変遷し、卒業して10年目に、競技団体に籍を置くことになりました。
<2015.10収録>
競技団体って何をしているところですか?
競技の普及活動と競技者の育成などをしています。事務局は原宿の、日本体育協会や日本オリンピック委員会など色んな競技団体が入っているビルの中にあります。また、赤羽のナショナルトレーニングセンターにもコーチが詰めていて、選手の強化を行っています。
トップ選手が世界大会に参加する時に、日程の調整や派遣の申請、ビザの手続きや航空券や宿泊先を手配したり、審判をいろんな大会に派遣したり、国内大会では後期高齢者の方も参加するような大会を含めて主催したりしています。
佐々木さんはそこでどんな仕事を?
自分は今、どちらかというと生涯スポーツ的な国内大会を担当しています。大会への申し込みの受付をしたり、運営方法や手順などを主管する団体と打ち合わせしたり、基本は裏方で、仕事で求められることは調整力です。
10月には大会が3つ、同時期にありました。大会の時は現地に行くこともあります。マスターズは30代から80代以上の部まであって、85歳の方でも侮れないんですよ。国内大会でも全日本選手権などは、トップクラスの選手が出てきます。
自分は、4月に入ってまだ5カ月目のド新人なので、電話も率先して取って、メールを打ちながら電話で「はい、分かりました。あ、ちょっと待ってください。ではよろしくお願いします。」そんな感じでやっています(笑)。
競技の経験は?
中学校の体育の授業でやったくらいです。電話で問い合わせがあった時に、自分もある程度は答えられないといけないので、今は、ルールを勉強しています。必要な競技領域とか、コートの大きさとか、競技の特性上色んな細かい決まりがあるんですよ。
もともとそういう仕事を目指していたのですか?
全く。もともとは柔道整復師になりたかったんです。高校の時ソフトボールをやっていて、怪我が多くて接骨院に通って、接骨院の人に色々教えてもらううちに、「こういう仕事も楽しいかも。」って思うようになりました。それで将来はマッサージとか、身体をケアする道に進みたいと思っていました。
ほんとは高校卒業後、柔道整復師の学校に行きたかったんですが、親や周りの人たちに「取りあえず大学に行っておいたら?」と言われて。柔道整復師の夢も捨て切れなかったので、「大学を卒業してから専門学校に行こう。」と思っていました。
ニチジョを選んだのはスポーツ医科学的な勉強をしたかったのと、大学案内に「体育が得意でなくてもスポーツが好きであればOK」とあったからです。
大学時代はどうでした?
入ってみたら面白い学生がたくさんいて、イラストがうまい芸術的なヤツもいれば、舞踊専攻や幼児発達学専攻もあって、ガッツリ体育大というよりもどこか柔らかい感じがしました。学友会の活動もしていましたが、年次でテーマを決め、2年はボランティア、3年はインターンを含め就職関連、そして4年生の夏休みに、卒論のテーマを兼ねて、マウンテンバイクで日本1周の旅に出ました。東京を出発してから北上して、北海道に渡り、また本州に戻ってきて本州を南下しました。警察に職質を受けながら野宿したり、青森でねぶた祭りを見たり、いろんなことがありました。
台風の中ビショ濡れになって自転車を漕いでいる時は、「なんのためにこんなことをやっているんだろう。」と思いました。九州まで行けたのですが、大学の授業が始まって時間切れとなり、卒論兼、自分探しの旅は終わりました。
就活は?
その頃はカメラにも興味があったので、仕事にするならそういうのがいいと思って、カメラのキタムラやスタジオアリスなども受けていました。最終まで行った会社もありましたが、結果的には採用に至りませんでした。
公務員の親に薦められて、一般企業と並行して警視庁や県警など、受けられるだけのところを受けていました。でもそっちは自分の本意ではないので、面接ですぐ見抜かれてしまうんですね。教員採用試験も受けましたが、もともと勉強していないので落ちました。
卒業して柔道整復師の専門学校に行くための学資を貯めようと思っていました。大学の先生から「就職決まってないなら、教務補助やる?」と言っていただき、1年間大学で教務補助をやりました。翌年も引き続き大学で嘱託の事務職員をやらせていただきました。
どんな事務を?
教務課で、主に学生を介護実習の施設につなぐ窓口のようなことをやっていました。学生の時は教務課が苦手で、あまり近寄らないようにしていたんですが、まさか自分がそこで仕事をするとは思っていませんでした。やってみたら、何回呼び出しても来ない学生がいたりして、自分もいつの間にか怖い人になっていましたね(笑)。
教務課では2年間働かせていただきました。「事務仕事だけはやりたくない。」と思っていたのに、その時やってみたら意外とできたんですよ。ちゃんとできていたかは微妙ですが...。
翌年、日本体育協会の募集を知って、応募したら嘱託で採用していただきました。私が入った当時は、ニチジョOGが7人ぐらいいたと思います。
日本体育協会では何をしていたの?
totoの助成事業でもある総合型スポーツクラブの助成申請の窓口業務や、事業の決算書や予算書、中間報告の精査です。簡単に言うと、ひたすらお金が正しく使用されているか書類の精査をしていました。あとマスターズ大会の助成金のことや大会の運営などもやっていました。
いっぽうで、警察の試験も受け続けていました。受け始めて4年目の時、2次試験で健康診断書を提出したら再検査になってしまいました。そこで「骨棘(こつきょく)」って言う、骨が潰されてトゲのようになっちゃうのが発覚したんです。
自分は親の結婚への期待には答えられないかも知れないので、せめて職業だけでも親の期待に答えようと思って、警察を受け続けてきました。でも骨棘が見つかって、「もう警察は受からない。」と悟りました。
ちょうどその頃、弟が教員になったこともあって、「もうこれからは自分の生きたいように生きよう。」と思ったんです。
自分の生きたいようにとは?
自分の夢を実現させることです。バイクを買ったり旅行に行ったりして、柔道整復師の学費は思ったように貯まりませんでしたが、資格がなくてもできるリラクゼーション業界のパートナーストレッチからやってみようと思いました。
3年いた日本体育協会を辞めて、ストレッチの研修を受けられる会社を探して雇っていただきました。そのまま勤め続ければ研修費用は免除になります。研修が休みの日には友達のところにベッドを持ちこんで練習したりして、100人やるのを目指していました。
5ヵ月の研修後、試験にクリアできた人から、お店にデビューできます。その間の給料はナシです。自分は貯めたお金と雇用保険で生きていました。
5カ月後に試験に受かって、やっとお店に出られるようになりました。でも正直、シャイで、人嫌いで、サービス業は超苦手です。最初は「巧けりゃ客は向こうからやって来る。」くらいの勢いで、技術もないのにひたすら技術で勝負しようとしていました。
ストレッチ店って、お給料は歩合制ですか?
お店にもよると思いますが、完全歩合制です。食べるためにも、お客様に指名してもらわなければいけません。指名のお客様を掴むにはどうすればいいか、いつも考えていました。色んな人のやり方を覗いてみたり、会社の勉強会に参加したり、ビラ配りもやりました。
でもお客様が求めているのは、トークのうまさだったり、安らぎだったりするんですよ。そういうのがだんだんわかってきて、でも自分をそんな簡単には変えられないじゃないですか。いきなりトークが上手くなるわけはないし。指名されたスタッフが埋まっていた時に零れ落ちてくるものを拾ったりして、どうにか食べていっていました。
そんな感じで1年くらいやって、「ストレッチだけではなくマッサージもやりたい。」と思って、マッサージの会社に移りました。そこでまた研修を受けました。その頃からだんだん、お客様が何を求めているかわかるようになりました。
「この人は今は寝ていたいんだな。」とか「この人は話を聞いてもらいたいんだな。」とかなんとなくわかってきて、そうなるとだんだん指名のお客様もついてきました。お客様と話すのも楽しいと思えるようになってきて、技術面でも「もっとこうしていきたい。」とか思うようになり、仕事に張り合いも出てきました。
その頃、リラクゼーション系の仕事をしていた他のニチジョOGがいて、「いずれは独立したいね。」というところから、「一緒にやったらおもしろくない?」「うちらは接客が得意ではないから、1人面白いやつ入れて事務を任せて。」とか、よく話しあっていました。
独立ですか。それは楽しみだね。
でもひとつ困ったことがありました。どうやら自分は、人の身体を触ることでその人の悪い所をもらっちゃう体質だったんです。触っていて「あぁ、この人頭痛持ちだ。」ってわかった途端、自分も頭が痛くなってくるんです。次のお客様で「なんか腰が痛くなってきたぞ。」と思ったら、その人は腰痛持ちだったとか。
最初のお店では気づかなかったけど、どうも相手の気持ちに立とうとシフトし始めた頃からそれが出てきました。他のスタッフに聞いたらやっぱりそういう人がいたんです。ある程度気心が知れたお客様の時ほど、そうなるみたいで。
マッサージ店で2年半ぐらいやった頃から、腰に違和感を感じるようになりました。「気のせい」にして、気合いで乗り切っていたら、そのうち痺れも出てきて、ある日突然ぎっくり腰になりました。病院に行ったらヘルニアでした。
お客さんを触っていても自分の痛さの方が勝ってしまって、施術に集中できなくなりました。腰で押すので圧が入っていかないんです。「これはちょっとお客様に迷惑かけるな。」と思い、せっかくご指名いただいたのに他のスタッフに引継いだり、歯がゆい思いをしながらも、だましだましやっていました。
「やっと軌道に乗ってきたのに、何でもっと自分のケアをしなかったんだろう...。全く。人のケアをしてる場合じゃないよ。」と思いました。会社からは「研修所で指導者としてやっていくか。」という話もいただいて、どうするか迷っていました。
そんな状態で5カ月ぐらいたった頃に、日本体育協会にいた時の上司から「プッツリ連絡来なくなったけど、生きてる?」とメールをいただき、「実はヘルニアになってしまい、この先どうしようか考えています。」と返事をしました。そうしたら、職をご紹介いただいたんです。
「思い切って職を変えてみよう。」と決心して、年末いっぱいでマッサージのお店を辞めることになりました。
次は何の仕事を?
ところがその仕事の話が直前になって頓挫してしまったんです。辞めるのは決まっているのに次の職は決まっていないという状況に陥ってしまいました。「これはもう休めということだな。」と思って、年が明けてもしばらくはボーッとしていました。
3年とはいえ、いちおう自分のやりたいことができていました。でも次にやりたいことが、何も思い浮かびません。親は「戻ってきたら。」と言ってくれましたが、何も成し遂げられずに実家に戻るのは「大学まで出させてもらって申し訳ない。」と思いました。
時々ハローワークを覗いてみたりして、おもしろそうな仕事を見つけて応募していました。巫女さんの募集に応募したこともあります。「お前が巫女かよ!」ってつっこまれそうですが(笑)。ソッコー書類審査で落とされました。
その頃、日本体育協会のかつての上司からまた連絡を頂いて、「別の求人の問い合わせがあったので、あなた、ちょっと間が空いてるけど行くだけ行ってみなさい。」って言われて、どういう仕事なのか条件も知らずに面接を受けに行きました。それが現職の競技団体でした。
面接で正直に「すみません。競技のことは何にも知らないです」って言いました。「でも生涯スポーツのことなら大学の時に勉強したし、前職でも少しはやっていました。」と続けたら、「君は今まで色々やってきているけど、取りあえずスポーツということでは統一されているね。」と言われました。
3名募集だったのですが、2名は日本体育協会を辞めた人が、1名は私が採用されました。
決まって良かったね。それにしてもすごい職業変遷だね。
「人生、何が起きるかわからないじゃないですか。この先も、ふとした瞬間に冒険に出るかもしれないですよ。」って、かつての上司に話したら、「バカ言ってんじゃないよ。もういいかげん落ち着きなさい。」って叱られました。
今はいちおう正職員なので、クビにならない限りは定年までいられそうです。入る時に、「給料的には安いから一人暮らしはきついよ。」って言われたんですが、今までもけっこうドン底の生活を経験しているので、贅沢しなければ充分生きていけます。
パートナーストレッチ時代に比べたら、安定はしています。さすがにもう落ち着こうとは思いますが、それがいいことなのかよくわかりません。
将来は、どうなっていたいですか?
それが全然見えないんですよ。今までの知識や経験を仕事に活かせればとは思っていますが。大会の運営方法とか、こういう書類にしたらもっとやりやすいとか、そういうことは見えるんですが、自分の中で、果たしてここから何がしたいのかは見えていません。今はそれを見つけるのが課題です。
ただ、なんとなく「この分野でいいのかな。」とは思います。やめたくないので、しばらくはこの道で行きますが、今はただ目の前のことをひたすらやっていて、そこから何かが見えてくるのか、まったくわかりません。
安定した仕事って、往々にして派手でもないし華やかでもないと思うんです。淡々と仕事を進めながら、旅行したり写真撮ったり自分の楽しみを別に見つけて生きるのもありなのでは?
確かにそれもひとつの手だとは思いますが、「それも何か違うな...」って思ってしまうんですよ。どうせやるなら仕事で自分が熱くなれるものを見つけたいじゃないですか。だって、1日の中で仕事をしている時間が一番長いんだから。
やりたいことが先にあって、それを仕事に選べる人は少ないんじゃないかな。会社に入って、だんだんこういう方向に自分は進んで行きたいとか見えてくると思うけど?
今までは自分が柔道整復師になりたいという夢があって、ストレッチとかマッサージをやっていました。マッサージ時代、「自分の中でこれをやりたいというのがあったら、短期目標でどうするか、中期目標で何歳までにどうすればいいかを作り込め。」って言われました。
あの頃はビジョンがありました。今はそれとまったく逆の進み方をしているので。2020年に東京オリンピックがあるので、区切りとして、それまでには自分のビジョンを見つけたいです。
佐々木さんの夢の探求、なかなか終わりませんね(笑)。
自分の中で「この時代の自分、良かった。」みたいのないですか?自分は学生時代、自転車旅行していた頃の自分、けっこう好きなんです(笑)。あの頃は、ずぶ濡れのカッパ着て、何かに向かってひたすら頑張っていました。マッサージをやっていた頃の自分も、夢に向かって頑張っていました...。
今の自分はちょっとモヤモヤしていますが、その中でも色々な人が心配してくれて、色々な人に助けられて、今の自分があると思っています。