資格・就職
- ダンス系
- 振付家
井上 さくら(2004年 舞踊学専攻[現ダンス学科]卒)
■HYBE LABELS JAPAN Team“S”
人一倍の努力でチャンスを掴み
夢を一つ一つ叶え続けてきた
<2022.12収録>
――人生を変えたジャズダンスとの出会い
私がダンスを始めたのは遅く、高校2年の夏でした。部活を引退して鈍った身体を動かそうとフィットネスクラブに通い出し、そこでおばさまたちに混ざって踊ったのが私の初めてのダンス体験です。器械体操部に入っていたので身体の使い方はある程度わかっていたけれど、強豪校という訳でもなく、とりたてて何かに秀でていたということもありません。何しろ高校は進学校だったので、私も法学部を目指して受験勉強に励む日々を送っていました。
けれどフィットネスクラブでジャズダンスと出会い、その面白さにすっかり魅せられてしまったのです。法学部に進むつもりでいたけれど、大学で4年間舞踊を学べるニチジョはとても魅力で、なんとか親を説き伏せて受験を許してもらいました。とはいえニチジョの舞踊学専攻を目指す人というのは幼い頃からバレエを学んできたような人たちばかりで、私も親も受かるわけがないと諦め半分での受験でした。ところが補欠ながら合格し、思いがけず入学が許可されてしまった。しかも補欠合格者8名中8番目というまさに滑り込みでの入学で、そこで"絶対に足跡を残そう!"と心に火がつきました。
入学するまでジャズダンスしか習ったことがなく、ニチジョに入って初めてコンテンポラリーダンスを学びました。とりわけ衝撃だったのが若松美黄先生のレッスンです。本当に自由で、これをやらなければいけないというものがない。あのとき教えてもらった感覚は今も作品づくりに生かされているのを感じます。
―― LAでブリトニー・スピアーズの振付家に
卒業後は"海外で見聞を広げろ"という親の意向で渡米。LAのダンススクールに通い始めたものの、親はダンスが仕事になるとは全く考えておらず、それは私も同じでした。ところがスカラシップをもらい、早々にダンサーとしての道が切り開かれたのです。そんなあるときブリトニー・スピアーズの振付補佐の仕事が舞い込み、それが大きな転機になりました。アメリカではダンサーと振付家を兼任することは難しく、どちらか選ぶ必要があったのです。ブリトニーとの仕事は願ってもないチャンスで、振付に徹しようと決めました。
ブリトニーの仕事と前後して、韓国に2ヶ月間滞在してダンスのショーケースを作る仕事がありました。5人のメンバーの中でアジア人は私ひとりで、韓国ではアテンダントと間違われ、みなさん疑いもなく韓国語で話しかけてきます。これは何とかしなければと仕事の合間を縫って韓国語を習得し、それがまた後々キャリアアップの足がかりになりました。
当初2年間の留学のつもりが、気づけばアメリカに渡ってから7年半が過ぎていました。帰国は2011年です。ラッキーなことに当時はK-POPが流行りだした頃で、英語と韓国語が話せる振付家として重宝され、次々と仕事を頂くようになりました。
現在はHYBE LABELS JAPANとTeam"S"に籍を置き、K-POPからジャニーズまでさまざまなアーティストの振付を手がけています。私が振付をするときは、まずストレッチからはじめ、ストレッチで終わります。これは私自身大学で学んできたダンスの基本で、どんな人気アイドルであろうと同じ。アイドルグループの子たちの中には、ダンスに興味がなかったり、自分はダンスが下手だと思い込んで自信が持てない子もいます。彼らにいかにダンスを楽しいと感じてもらえるか、いかに自信を持てるようにするかも私の仕事。振付をしていてあまり格好がつかないなと思ったら、その場でどんどん変えていきます。やはり本人が一番良く見えるようにしてあげたいし、それで彼らが自信をつけてくれたらいいという考えです。
―― チャンスが訪れたとき逃さぬように
ダンスが好きという想いから始まり、振り返ると夢が一通り叶ってきました。自分でもラッキーだなと思います。ただチャンスが訪れたとき掴む努力は絶えずしてきたつもりです。スタートが遅かったぶん人一倍レッスンをしたり、英語や韓国語を身につけたことで、ステップアップのチャンスを逃さずここまでくることができました。将来何が自分の助けになるかはわからない。だからこそこれから大学で学ぶみなさんには、今できることを大切にしてほしいと伝えたい。そしてかけがえのない大学生活を過ごしてもらえたらと思っています。