資格・就職
- ダンス系
- 振付家・ダンサー・ヨガインストラクター
髙橋 智子(2003年度・舞踊学専攻卒)
■スタジオ経営
バスキングで世界を回ってつかんだこと。
髙橋さんは大学卒業後、就職せずにダンス活動に打ち込んできました。しかし自分のダンスに迷うようになり、世界へ旅に出ました。卒業して10年がたち、今は自分の進むべき道が見えてきました。
<2015.08収録>
高橋さんは今、「Lata Tomo」と名乗っていますがどうして?
初めてインドに行った時、ヨガの先生に「Lata」という名前をもらったんです。今はもうラタでしかないくらい、自分にしっくりきています。「蔦」という意味で、私も色んなものをツタって生きてきましたから(笑)。
最近は新潟で色々と活躍していますよね。ところでここはカフェですか?
あ、ここ、スタジオ付属のカフェです。もともと蔵だったのを、旦那と3カ月かけてカフェに改装したんですよ。去年、向かいの工場跡を借りてスタジオに改装して、今はそこでイベントやワークショップを開いたり、ダンスやヨガのレッスンをしています。
あ、コーヒー淹れますね。パンも食べますか?ここのメニューは全部オーガニックで、宇宙パスタとかけっこう面白いものを出しているんですよ。
あ、じゃあいただきます。宇宙パスタって何ですか?
宮古島で作っている麻炭パウダーを味噌に漬け込んで、たかきびとかみりんとか雑穀とか色々入れたパスタソースで、真っ黒なんですよ。私、マクロビオテックに興味があって、一時は雑草にハマっていて、雑草のマリネとかも作りました。スベリヒルとか、酸っぱくって美味しいんですよ。
私は雑草が食べられるっていうのが嬉しいんですけどね、お客様に「何これ?」って聞かれて「雑草です。」って言うとびっくりして、ヨガやっている人なんかは喜んでくれますが、グルメ志向な人は「ここは雰囲気はいいけどメニューはウーン...」ってなっちゃうんです。
そういうメニューを考えられるのは、やっぱり世界を回った経験からですか?
世界を回っちゃうような性格のせいかもしれませんね(笑)。ほんとに色んなところに行きました。インド、アメリカ、ヨーロッパ、中東、アフリカ、オーストラリア、アジア...。
卒業してからしばらくは、東京でダンス活動をやっていましたよね。
大学生の時、先生に「これからどうやって生きていったらいいですか?」って聞いたら、「え、それはオマエ、アルバイトしろ。」って言うんですよ。「ええーっ、就職を斡旋するとか、そういうのないんですか?!」って、すごいショックで(笑)。
本当はあったんでしょうけど、就職したらダンスを止めちゃうから、先生は「就職しろ。」って言わなかったんでしょうね。おかげで何とかして生きていく方法だけはたっぷり身につきました。
卒業後もダンスを優先して、時間の自由のきくアルバイトや契約社員を3つくらい掛け持ちしていました。でも親に大学まで出させてもらってアルバイトしているのも自分に罪悪感があるから、なるべく時給がいい仕事を探して派遣の事務をやったりしていました。
私、よく働くから、「正社員にならないか?」って誘われるんですよ。会社はけっこう居心地いいし、仕事も楽だけど、「正社員になったら絶対ダンス止めちゃう。」と思ってお断りしました。それからは居心地が良くなると辞めるようにしていました。でも大学の時から7年間続けていた飲食店のアルバイトはダンスより辛いから、「ダンスの方がいい。」って思えるんです(笑)。
とにかく「ダンスだけは止めちゃいけない。」って思っていましたね。でも自分でお金を出して作品を上演したりするじゃないですか。「それって、誰も求めてないっていうこと?」って、自己満足な気もして。時々は、ダンスでお金をもらえるんですよ。それもけっこうごそっと。でもそういうのは年に1、2回しかないから。
そんな感じで3年ぐらいやってきて、ダンス界も社会の雛形と言うか、これで賞を取ってあれで賞を取って...ってやっているうちに、ちょっとずつ出世していくんですね。おこがましいんですけど、「このままいくとある程度はいくな。」そういうのが見えてくると、「ちょっとつまんないな。」と思ったんです。
ヨーロッパとかに留学したいけれど、東京の1人暮らしでそんなお金貯めるなんて絶対無理だから、「じゃあ、みんなが行ってないようなところで、みんながやってないような身体の使い方を身につければ、脱皮できるんじゃないか。」と思って、インドに行ってみたんです。
インドで何をしてきたの?
リシケシって言うヨガの聖地があって、そこでタントラヨガと瞑想のコースを2カ月間受けました。私にとっては、人生で初めてのゆっくりした時間でした。学校に行くなり、先生に「何だ、その格好と髪は!コンテンポラリーダンスだと?そんなの生きてもいないぞ。」いきなりガツンとやられました。
絵描きでもある芸術家の先生は、「人生はアートだ!」みたいな考え方の人で、色んなアーティストと交流があって、ピナバウシュとも喋ったことがあるらしいんです。「私、ピナバウシュ大好き!」って言ったら、「あんなのはクレイジーだ!芸術はもっと美しいものなのだ。」とか言われて、「いや、それは違うと思う!」と、口論になったりもしました。
でもそこでの体験は、私にとってはまさに目から鱗と言うか、「自分が東京で見ていたものは、なんてちっぽけで狭い世界だったんだ。世界にはまだまだ学ぶことがいっぱいある。もっと広い視野を持たないと本当の表現なんてできない...。」って思いました。
日本に帰って、「このまま東京にいたら、ダンスと家賃のことでもう精一杯だ!」と思い、新潟の実家に戻ることにしました。
新潟に戻って?
生活は楽になりましたが、今度はダンスをする場所がなくなってしまいました。東京ならすぐにレッスンに行けるのに、新潟にはそういう場所もありません。一緒にやれるようなダンサーの仲間もいません。「東京と比べてアレもできてない、コレもできてない...、もうダメ、こうやってダンス止めていくんだ!」って思いました。
でも「新潟のダンスは自分が何とかしなければ!」みたいな使命感もあって、ニチジョOGの先輩に手伝っていただいてソロ公演をやったり、5人ぐらいで公演したり、京都のカンパニーに参加して踊ったりしていました。
「せめて年に1度はどこかで思いっきり勉強しよう。」と決めて、アメリカに3カ月間行きました。ネバダ州立大学のパフォーミングアーツ科という所で、ピラティスや解剖学を勉強したり、向こうで色んなダンサーと会いました。日本だったら絶対食べていけないようなレベルの人でもダンスを仕事にしているのが不思議でした。
私には東京時代からずっと抱えている葛藤があって、「私はダンスを十何年も真面目にやってきたのに、どうして仕事にできないんだろう?私よりヘタクソな男の子は仕事で何十万ももらっているのに。」と思っていました。
踊りを教える仕事も始めて、生徒の発表会で制作をやったりもしました。大学の時は踊ることしか興味がなかったから、制作は全くやったことがなくて、時々「何でわざわざこんなことまでして踊りたいのかな?」って思うこともありました。
インドにはその後も度々行っていて、ビザの関係でだいたい3カ月滞在してヨガ修行みたいなことをやっていました。
3回目のインドは、ニチジョ時代の友達と一緒に行きました。当時、彼女とは佐渡島で一緒に作品を発表する機会があったのですが、彼女は1週間で島の生活が嫌になって、朝起きると枕元に、「トモちゃんは偉い。こんなところで暮らしていけて。私にはもう無理です。」って置き手紙を残して、帰ってしまったことがあります(笑)。
その頃って、不思議とニチジョOGがインドに集まっていませんでしたか?
それって、私がきっかけかもしれませんね。ニチジョの小山先輩に「インドに行こうと思うんだけど?」って訊かれて色々紹介して、先輩がインドに行っている時に私もちょうど行っていて、道でばったり会ったりしました。同期の尾形直子もその頃インドに居て、私がシータヒーリング(瞑想法の一種)の勉強をしている時に、彼女もちょうど講座を受けていたり...。
ダンスって突き詰めていくと、なぜか宇宙の法則みたいなところにたどり着くじゃないですか(笑)。子どもの頃からダンスをやっていて、いつかそういう仙人みたいなことに興味を持つだろうと思っていたんだけど、こんなに早くそうなるとは思いませんでした。
自分のダンスに悩んで、「あーもう、コンテンポラリーダンスわけわからん!」となっていた時、ポンっと日本を飛び出してドイツに行ってみました。
ダンス探しの旅ですか?
ドイツで色んなアーティストに会いました。言葉もうまくできなかったので、向こうで声をかけてもらってもついていったりはできなかったけど、「ヨーロッパで活動するのもけっこうサバイバルだな。」と思いました。安定して食べていけるのは、やはり限られたカンパニーに所属する人だけで、他の人はみな仕事を取るために必死です。
そんな中、私はバスキング(路上の芸で投げ銭してもらうこと)を始めました。最初はミュージシャンと2人で、ひとりがギターを弾いて私が踊っていたのですが、私が踊るとダンサーの方が注目されて、ギタリストはバックミュージシャンみたいになってしまうんです。ギタリストはそれが嫌で、「自分は別にやる!」と、途中からひとり放り出されてしまいました。
私は別にバスキングがやりたかったわけじゃないんですが、旅費を稼ぐために、インドで覚えたインド古典舞踊を始めました。踊り始めた途端にパーッていなくなっちゃったり、最高の踊りができたと思っても誰も見ていなかったり、1円も入らない日もありました。短すぎるとお金を投げてもらえないし、長すぎると飽きられ立ち去さられてしまいます。
「最初は静かに入って、アンプも使って途中から盛り上げて、最後はカット的な感じにして、ワァー!(拍手)となって、ついお金を出しちゃう。」そんな流れを一所懸命考えて、少しずつお金を投げてもらえるようになりました。そのたった5分間の路上が、私に取ってはすごい勉強になりました。
稼いだお金を旅費に当てて、ドイツからトルコ、エジプト、エチオピア、ジンバブエ、オーストラリアなど色んなところを回っていました。
国によってバスキングの反応に違いはありましたか?
イスラム圏では女性が公衆の面前で踊ることはあまりありません。トルコのイスタンブールでは、グルグル回ってスカートがちょっとめくれただけで、悲鳴があがったりペットボトルを投げられたりしました。ザビタという治安組織にアンプや小道具を没収され、苦労して取り戻したこともあります。エジプトでも警察にパスポートを没収されそうになって、周りの人たちの応援で助かったこともありました。
オーストラリアのパースという町にいた時は、1年間、毎日のように同じ通りで踊っていて、常連さんもできました。終わって荷物をまとめていると一緒に写真を撮ってと言われたり、食べ物をくれたり、中には涙を流してハグしてくれくれたりする人いました。逆にモノを投げられたり、ドラッグで頭がおかしい人にお金を盗まれたこともありました。
ある日いつものように踊っていると、パースの芸大の演劇科の学生に声を掛けられて、コンテンポラリーダンスの振り付けをすることになりました。今から思えば「よくインド舞踊の人に声をかけたな。」と思うんですけど、私はたまたまそっちが本業だったので、それ以来、そういう仕事がちょくちょく入るようになり、大学でワークショップをやったり、フェスティバルで踊ったり振りつけたりしました。
どこに住んでいたの?
パースではシェアハウスに住んでいました。世界中から色んな人が来ていて、同年代の日本人と「お金の価値を考え直そう。」とか「もっと世界を良くする為にどうしよう。」とか「人間はみんな革命家だ!」みたいなことを夜な夜な語り合っていました。後輩の大島菜央もパースでバスキングしていて、菜央ちゃんとはけっこう共通の友達がいます。
2011年、日本で東北大震災が起き、原発事故にショックを受けた私は、パースで送電線自由化の署名運動を始めました。踊った後に、「日本では今こんなことが起こっています。送電線の自由化をすれば、原発だけじゃなく太陽光とか色んな電源が選べます。」みたいな話をオーストラリア人にして、署名を集めて日本に送りました。
その頃、インドのバンスリって言う笛を吹くミュージシャンと知り合いになって、彼が韓国の舞踏家のプロジェクトで万博に出るというので、私もビデオを韓国に送ったら是非参加してほしいとなって、一緒に韓国に行くことになりました。
旅費も宿代も出してもらえるという話だったんですが、舞踏家の主催者へのプレゼンが上手くいかなくて、途中で援助を打ち切られて路頭に迷ってしまいました。呼んでくれた舞踊家も悪いと思ったのか、韓国でツアーを組んでくれて、ソウルとかチェジュ島とか色んなところを回って踊りました。
その縁で、日本に帰ってきてから、2013年のジュジュ実験芸術祭に招待していただきました。日本からは藤條虫丸(フジエダムシマル)さんっていう屋久島在住の舞踏家の方も参加して、私はパフォーミングアーツをやっている韓国人のアートディレクターと一緒に共演したり、踊ると発電する仕組みの「Prity Prity Light」っていう作品を上演しました。
韓国ツアーの後、今度はタイのプロジェクトに参加して、それがきっかけで中国のプロジェクトにも呼ばれました。その後再びインドに行ったら、そこで肝炎になってしまったんです。病院に入院して、医者から「もう日本に帰って6カ月はおとなしくしていなさい。」と言われ、3年ぶりに日本に帰ってきました。
まるで糸の切れた凧のようですね(笑)。
帰ってきた次の日に、関屋浜の海の家で今の旦那と知り会いました。彼は東京でサラリーマンをしていて、東日本大震災の後にピースボートで世界を回り、その後イギリスやドイツに行ったりして、日本に戻ってきたところでした。
お互い「こういうことをやりたい。」と言い合っているうちに、それが同じようなことだったので、最初は友達として手伝い始め、私のヨガ教室にも来てくれ、そのうちつきあうようになり、1年後に入籍しました。
最近はどうですか?
最近やっと、「東京みたいになる必要ない。」って思えるようになりました。ダンスで食べていけるのは東京でも一部の人だし、ダンスとかアートをお金にするのは、表現の質を高めることでもあるから大事なことだとは思うんですけど、今は必ずしも職業ダンサーとして生きていく必要はないと思っています。
今は観客を動員してアートにお金が流れていくようなことに興味があって、制作の仕事も昔はクリエイティブとは思えなかったけど、今はとても創造的な仕事だと思います。普段は他の仕事をしていて、年に1回でも面白いプロジェクトができたらいいですね。
アートをビジネスと捉えてしまうと、コンスタントに回していかなくてはならないけれど、単発のプロジェクトでそんなに大きなお金は動かなくてもきちんと黒字を出す。そこで呼んだアーティストが、今度は逆に別のイベントに呼んでくれたり、そういう横のつながりもできて、それぐらいが自分にとってはちょうどいいんです。
ダンスにこだわらず、新潟には色々面白い人たちもいるので、そういう人たちと一緒に街起こし的な企画を立てたり、自分たちのアイデアを持ち寄って形にしていくのも、ダンス作品を作るのと同じくらい楽しいです。この間もオーガニックのイベントで知り合いになった人と一緒に、ここでマルシェをやりました。
これからはどうしていきたいですか?
実はここをもうすぐ出なくちゃいけなくて、ここから車で40分くらいの五泉というところに引っ越す予定です。そこで家賃が安い畑つきの一軒家を見つけて、またこつこつ改造しながら楽しく暮らしていけたらいいなぁと思っています。
韓国の実験芸術祭に参加した時に、ノルウェーの2人組の女性アーティストが、とても魅力的なダンスフェスティバルを企画していました。それはテクニック的なダンスとは違っていて、ノルウェーに色んなアーティストを呼んで森の中の色んなシチュエーションで踊るというものでした。
私もそういうやり方にならって、色んな人がつながって、人々の暮らしが豊かになるようなダンスを、みんなとシェアしていきたいと思っています。ダンサーだけではなく、障害者を対象にしたワークショップもやっていきたいです。年代も性別も障害の有無も様々な人たちが集まって1つの作品を作りあげていくんです。今は、そういう仕事の楽しさに気づきました。
いわゆる一般的な「いつまでに貯金を貯めてマンションを買う」みたいな生活をしている人と、自分を比べたりしませんか?
多分比べてると思います。みんな大変な道を選ぶなと思っています(笑)。だって絶対そっちの方が大変だし、楽しくないじゃないですか。
でも将来が心配になったりはしないの?
ここでは無農薬の有機栽培もやっていますし、自分は食いっぱぐれがないから絶対生きていけると思います。むしろみんなの方が心配です。これからどうなるかわからないけど、もしお金を出して食べ物が買える時代が終わっちゃったらどうするんだろうって思って。もし安全な食品が買えなくなったら、子どもを無事に育てることができるのかな?
今まで「自分はお金にならないことにばかりに興味があって、どうしてこんなに無駄なことばかりやっているんだろう?」って思っていたけど、それは自分にそういう潜在的な危機感があったからだと思います。何の疑問も持たずにレールの上を歩いていていると自分の頭で考えなくなってしまうし、そういう意味では、ダンスとかヨガとか、アートの世界に生きている人たちの一見変な感覚はすごく大事だと思います。
レールから外れるのは勇気がいりますね?
昔は老後が心配で、年金がどうのこうのって言っていたこともありました。でもお金の心配をしながら経済中心に生きるのはやめたんです。それでも生きていけるので。家賃はなるべく安いところを探して、借金はしない、ローンも組まない、そう決めたらすごい気が楽になりました。今はクルマに毎日乗っているけど、できたらそれもやめたいと思っています。
旦那は、今、在宅で通訳の仕事をやっています。彼はパーマカルチャー(自然循環型の農業)とか、パッシブソーラーハウスとか、文明を使って自然を傷つけない生き方に興味があるみたいです。でも引っ込み思案で自分ではなかなか行動しないので、私が「できるよ!」「何日までにやって!」とか言って、後押しています(笑)。
昔と較べてダンスに対する考え方は変わりましたか?
やっと最近、踊りがわかってきたと言うか、もうこれしかないっていうのが自分の中で見えてきました。昨日もリハーサルの時に、「立つってことは、お腹と地球をつなげることだ!」みたいなことを言っている自分にびっくりしました。
ダンサーにこう踊ってもらいたいとか、自分の踊りを伝える時に、いつの間にか「息を通す」とか、「大地とつながる」みたいなことを、バレエの1番ポジション、2番ポジションと同じように自然に伝えられるようになりました。
昔は踊ることに罪悪感やコンプレックスがあって、24歳ぐらいの時、リンゴ食べたりして踊っていた頃は、ダンスは戦略だと思っていました。人に観たいと思ってもらえるものを作るには「とにかく人に喜ばれるものを作らなきゃいけない。私はまだ若いし味わいがないから、テクニックだけの踊りでは満足させられない。自分の身体でセクシーな踊りをやっても喜ばれない。何か面白いことをして笑ってもらうしか、お客さんを喜ばせることはできない。」と
「こんなことを私の地味な顔でやったら面白いんじゃないか。」とか、髙橋智子ならではの路線を探して、腹話術とかギャグとかの中に、やっと自分のやりたいことが入ってくるんです。
それを、世界中でバスキングして続けたわけですね?お客さんを喜ばせて、お金投げてもらうために。
でも私は本当は地味なことが好きで、面白いことはあんまり好きじゃないんです。テレビもあんまり見ないし、エンターテインメントをやるタイプでもない。だから「いつか踊りだけで見せられるような人になりたい。」と思っていました。
バスキングは結果が目に見えて現れました。それも超短期決戦で。「あっ、これいいんだ。」とか、「これ良くないんだ」とか。でもバスキングは、ちょっとやるならいいけど、それで生活していくとなると大変です。舞台なら観たい人が来てくれるけど、路上は通りすがりの人に見せるので、一所懸命練習してやっていても、ある意味押し売りですよね。
ヨーロッパの人はアートを観るような感覚でダンスを観に来る、コンテンポラリーダンスを自然に楽しんでいると聞きました。それは日本とヨーロッパの文化の差なのでしょうか?
コンテンポラリーダンスの魅力ってやっぱり多様性だと思うんですよ。ヨーロッパには移民もいるし人種もミックスしてるから、多様な価値観が認められやすいんだと思います。みんなが違って当たり前だし、型にはまらない人がいて当たり前だと。
日本はお稽古事を親戚一同こぞって見に行くみたいなところがあって、ちょっとでも型にはまらないと、「これは違う、あれは違う」ってなる。バレエの発表会なんて、「本当にみんな観たいのかな。義理で来てるんじゃないか。」って思っちゃうんです。私は「なんだこの人のこの踊りは?わけがわかんないぞ!」みたいなのがやっぱりおもしろいと思う。
昔の大正時代あたりの日本人の方がもっと色んなことを受け入れて、新しいものを作り上げていたような気がします。日本人は自分で考えることに臆病になっているのかもしれません。深く考えないようにして、だんだんバカになっているのかな(笑)。
それにしても舞踊専攻卒の人達は、みんなそれぞれ面白い生き方をしていますね。
私が今幸せなのは、ニチジョに行って、今までダンスをやり続けてきたからだと思っています。あ、畑を見てみますか?かぼちゃ収穫したので、東京に持っていってください(笑)。