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テレビ局に入社して24年、苦い経験を通じて学んだ教訓

下川 美奈さん

日本テレビ 報道局社会部副部長兼解説委員


本日の講師は、日本テレビ報道局の下川美奈さんです。下川さんは、1995年に日本テレビに入社し、報道局で警視庁クラブ、国税庁クラブ、「ニュースプラス1」ディレクターなどを経て、2006年には女性初の警視庁記クラブのキャップに就任しています。現在は、情報番組「スッキリ」の火曜日のコメンテーターやニュース番組で事件解説などを務めています。今日は、テレビ報道の現場や働く上での男女の違い、失敗から学んだことなど、テレビ局に入社して24年目の女性という視点でお話しいただきました。
<2018.07収録>

はじめまして、みなさんこんにちは。日本テレビの下川美奈と申します。日本女子体育大学の松澤先生とは、私の先輩を通じて知り合い今回のキャリアカフェのお話をいただきました。

日本テレビに入社以来、報道局一筋で

私はこの前、死刑が執行されたオウム真理教の松本智津夫こと麻原彰晃が逮捕された年に日本テレビに入社して、その年からずっとオウム真理教事件の取材を担当していました。先週の金曜日に死刑囚の死刑が執行されましたが、みなさんにとってはたぶん教科書でちょっと習ったぐらいか、もしくは、生まれる前の事件だと思います。1995年に逮捕されましたが、ようやく23年が経って死刑が執行されたということで、先週はすごくバタバタしてしまい、キャリアカフェがある今日でなくてよかったと思います。

ここで自己紹介をさせていただきます。1995年に日本テレビに入社してから、ずっと報道局の記者をやっていました。入社した年が、まさにオウムイヤーといわれるきっかけとなった地下鉄サリン事件や麻原彰晃の逮捕などがあった年だったので、新人時代はずっとそのような取材にばかり関わっていました。その後も、殆どの間、報道局の社会部で記者をしています。主に事件とか事故とか取材していて、2010年から記者とニュースキャスター業務を兼務するかたちで、以前は「情報ライブ ミヤネ屋」という関西系のクセの強いおじさんがやっている番組のニュースコーナーや朝の情報番組の「スッキリ」のニュースコーナーを担当していました。一度は出演することがなくなったのですが、去年10月から「スッキリ」の火曜日だけはコメンテーターとして出演しています。ワイドショーみたいな番組で、事件とか政治、芸能やスポーツなども取り上げるので、いろんな事に対してコメントさせていただくという仕事を記者と兼務しています。

女性で初めて警視庁記者クラブのキャップに

都内の事件などを取材する警視庁記者クラブという部署があり、10年ぐらい前にその部署のトップであるキャップという役職に女性で初めて就きました。

警察は事件とか事故を扱うことから基本的には男社会といわれ、そんな社会で初めての女性キャップということで、いろんな失敗や大変なこともありました。若いみなさんは、この先いろんな仕事に就いたり、主婦になるとか、様々な道に進むと思います。そこで、私が23年間、警視庁記者クラブのキャップも含め、現場で働いてきてあえて言えるアドバイスは、「いっぱい挫折と失敗をしたほうがいい」ということと、「失敗ときちんと向き合えば道は拓ける」、ということです。

自分の思いを伝えることの難しさを実感

先ほどお話したように、私の新入社員の年がオウムイヤーだったので、周りの先輩たちも忙しくて全く私の相手をしてくれないし、何を怒られているのかもわからないぐらい、みんな殺気立っているような状況だったので、仕事もすごく大変でしたし、ミスもとても多かったです。

例えば、新人の時は南青山にオウム真理教の総本部があり、その建物の前に新聞やテレビ、雑誌、海外のメディアがたむろし、ある意味"メディア村"みたいになっている交差点がありました。そこで24時間、交代でオウム真理教の信者が出入りするのを監視したり、総本部の中で記者会見が行われる際に取材していました。疲れ切った状態で会社に帰ると、今度はオンエアに携わる業務もあり、字幕スーパーを書くことも記者の仕事でした。

そんな中、書き方を教わらないまま字幕スーパーを書いたときに大きなミスをしてしまいました。オウム真理教の信者が地方で逮捕されたというニュースを扱ったとき、「オウムが容疑者をかくまっていたホテル」という意味で書くべき字幕スーパーを、「容疑者をかくまっていたホテル」と書いてしまいました。私が書こうとしていたことを正しい日本語で書けなかったために、オウム真理教の信者が隠れていたホテルに問題があるような書き方をしてしまいました。

しかも、そのホテルは日本テレビ系列の会社の大スポンサーだったということで大変なクレームが寄せられ大騒ぎになりました。私はそんなつもりで書いたのではないのに、という思いはあるのですが、それぐらい大きな責任のある仕事をしていることをそのミスであらためて気づかされました。

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警視庁記者クラブへの配属とさまざまな経験

大学時代から報道の仕事に携わりたいと思い日本テレビに入社したのですが、もともとは政治記者になりたかったのです。大学では政治学科を選び政治記者を志望して入社したのですが、オウムイヤーと呼ばれる年に入社した新入社員はみんな必然的にオウム真理教の事件を取材することになりました。しかも、雑用係みたいに見えることが多かったのでとても辛かったし、会社ではミスをして怒られるし、入社して間もない頃はなんでこんな会社に入社したんだろうと思っていました。

入社して2年目23歳の時に、24時間体制で都内の事件や事故を取材するという警視庁記者クラブに配属された時はショックで「これで私の青春は終わった」と思いました。遊びたいのにもう遊べないのか、というように頭でっかちに考えていた部分もあり、「嫌です、嫌です」と号泣したのを覚えています。

警視庁記者クラブに配属されてからすぐに強盗事件があり、現金輸送車が拳銃を所持した犯人に襲われて1人が重傷を負い、現金数千万円が奪われるという大事件が起きました。

現場で取材したり、関係者に取材したりする以外に、オフィシャルには話せないけれど捜査員の自宅に出向いて新しい情報を聞き出すという、いわゆる"夜討ち朝駆け"といわれる夜回り取材もありました。

ある日、先輩に夜回り取材に行くように指示され、捜査員の家の前で3日間待っていたのですが、2日経ってもなかなか家に帰って来ない。3日目に行ったら、やっと電気が点いていたのです。しかも、その家の捜査官は、私が警視庁記者クラブに配属された時に一番最初に挨拶をして、「がんばって」と声を掛けられ名刺交換もしてくれた捜査員の方だったので話をしてもらえるものだと思っていました。

"ピンポーン"と玄関のチャイムを鳴らした後にドアが開いたのですが、捜査員が私の顔を見るなりバーンとドアを閉められて怒鳴られました。「うちは単身赴任だから女は来るな」と、すごい剣幕で怒られました。みなさんもそうだと思いますが、ほとんど初対面に近い50歳以上のおじさんに面と向かって怒鳴られた経験がなかったので本当にショックでした。私だって来たくて来たわけではないのにと思いました。そんな、何が起こったか分からない状況の中「ドア越しでもかまいませんので、お話していただけませんか?」「私はまだ取材が慣れていませんが、いろいろお聞きしたくて」と聞いても「俺は男とか女とか差別しないけど、俺のところには来るな」と言われました。その言動自体が差別だと思いましたけど...。そんな、意味不明なことを言われ、けんもほろろで結局落ち込むだけで帰って来たというのが最初の夜回り取材でした。

【松澤先生】
夜回り取材は何時頃でした?

20時ぐらいです。それからすごすごと帰ったのですが、その件がトラウマになり、また誰かの家に取材に行っても拒絶されるのではないかと心配で。あんなに激しく怒られたこともなかったし、やりたくない仕事だと思っていたのになぜ?と思いながら落ち込んでいました。

その後、3ヶ月ぐらいずっと落ち込んでいました。そんな中、日常生活を送っているといろんな事件が起き、いろんな仕事が舞い込み、いろんな出会いも生まれます。「女性だけどがんばっているね」と言ってくれる方や、「女性だから話しやすいよ」と言ってくれる方もいました。私は紛れもなく女性だし、取材される側の人もいろんな人がいる。私が女性であることは変わらないし、女性であることを受け入れてくれる人もいれば、拒絶する人もいる、という開き直りみたいな感じになれた時、すごく気持ちがラクになれたし、その先もすごく生きやすくなったと感じました。

今となっては、若い頃にそういう経験をして良かったなと思えるようになりました。男性と女性は絶対に違う部分があるので、それをなぜ?と自分に問い続けたり、男女平等であることは働く上で前提だけれど男女には違いがあるんだ、と受け入れた時、その後の人生がラクになったと思います。若い頃に失敗や挫折をして良かったな、と今は思っています。その後もいろいろ失敗ばかりですが...。

トラウマになった過去の失敗

1999年頃、興宗教のライフスペースという団体が存在し、その代表が"ポンポンポン"と叩くシャクティパットという動作をすると病気が治ると謳い、いろんな人を勧誘してお布施とか治療費を集めて問題になっていました。

ある日、その信者に死者が出てライフスペースの代表が逮捕されるという事件があり、話題になりました。そのライフスペースの代表がいよいよ逮捕されるという時に、私は早朝から北関東のとある県の警察署に出向いて取材をしながら中継レポートをしていました。当時、機械に弱い私も普及し始めたモバイルパソコンを使い始め、その日もメモをとったり、取材の原稿を書いたりするために現地に持ち込んでいました。

11時から逮捕の記者会見が警察署で始まることになっていました。当時は全部1人で会見を聞いてメモをとって原稿も書いて中継するのが当たり前でした。自分がパソコンを使って書いた原稿を中継車からファックスで本社に送ってチェックしてもらい、ファックスで送られてきた原稿を読むというのがオーソドックスな中継の方法でした。でも、その日は時間がなかったのでパソコンの画面の原稿を読みながら中継をすることになりました。

さあ、いよいよ中継が始まるぞ、ということで「現場の下川さん」と本社のキャスターに呼びかけられました。最初は記者である私の顔と背景が生中継で映り、「先ほど会見が行われました」と話した後にVTRに移りました。そして、原稿を読もうと思っていたその時、手元に置いていたパソコンの画面が突然真っ暗になりました。「あれ、なんで真っ暗になったんだろう?」と思いながら、原稿を読もうとしてボタンを押しても何の反応もないので「えっ」と不思議に思って。何が起こったのかわからなかったのですが、要は朝から充電してなかったのが原因で、オンエアが始まったとたんに電源が落ちたんです。あと1分バッテリーがもってくれたら何の問題もなかったのに、なんでオンエアのタイミングで電源が落ちるんだろうと思って。電源が落ちたんだと理解できるまで「えっ、えっ」ばかり言っていました。本社にいたアナウンサーは新人だったので私のフォローもできず、ほぼ放送事故に近い感じが15秒ぐらい続きました。ようやく状況がわかってきた時、それまで使っていたメモと原稿を探し、なんとなく覚えていた事を話してその場をしのぎ、本社に帰ってからもいろんな処理でたいへんでした。

大先輩から思いがけないフォロー

当時、そのミスはあまりにも不思議なことのように思われたもので、同僚のみんなに腫れ物のように扱われ、私は1人でしょんぼりしていました。そんな時、まったく話をしたこともない大先輩からメールが届いたんです。怒られるのかな?と思いながらメールを開くと「今日はたいへんだったな。今日の事ぐらいで、お前が今までがんばってきた事は消えないから」みたいな内容のメールを年齢が倍ぐらい離れた大先輩が送ってくれたんです。それを見たとたん、「うわーん」と、号泣してしまいました。

こんなふうにフォローしてくれる先輩の言葉ってなんてありがたいものなんだろう、と思いました。私はミスをいっぱい経験してきたのですが、そんな大先輩のフォローがとてもうれしかったのです。今はミスがなかなか許されない時代になっていますが、ミスをした時にどうやってリカバリーするか、どうやってミスをした後輩を先輩としてフォローするか、その大切さみたいなものも学ばせていただいたと思います。

若い頃の自分のがんばりをVTRで見て

この前、日本テレビの「ナカイの窓」という深夜番組に報道局の社員がゲストで出演し、トークするという機会がありました。先ほどお話した、私がトラウマになった20年ぐらい前のミスの映像を、私自身今まで一度も見たことがありませんでした。年末によくあるNG大賞みたいな番組でとりあげられそうになった時も、私の心の傷が癒やされてないことをスタッフが察し、放送事故だからということでずっと放送されずにいました。

先ほどお話した番組、「ナカイの窓」で「今まで何か失敗したことありましたか?」と聞かれたのをきっかけに、当時のミスのVTRが流されたんです。私は初めて見たのですが、やはりオンエア的にも驚くような失敗だったのですが、20年経ってみると、それなりに私はがんばっていたなと思いました。「メモ、メモ」みたいな慌てている音声も入っていましたが、それなりになんとなく形にして放送を終えていました。当時は、失敗したことのショックから、そんなふうに番組をまとめていた認識はなかったのですが、若い私がんばっていたなと思えてなりませんでした。20年経って今までの思いが消化できて良かったなと。当時の私は、あんなにがんばっていたんだと実感し、「ナカイの窓」でお話しさせてもらう機会があったことを、とてもありがたく思いました。

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客観的な視線でコミュニケーションを

今から12年前の2006年、女性初の警視庁記者クラブのキャップに抜擢された時はすごくうれしかったです。女性だからというよりは、いっぱい失敗したけど今までがんばってきたことが認められたのかな、という意味でとてもうれしかったです。また、警視庁記者クラブのキャップとして男女問わずチーム一丸となって仕事ができた事がとてもうれしかったです。

私がキャップの時は、秋葉原の無差別殺傷事件などいろいろな凶悪事件があったのでとても大変でしたし、警察は男社会でヒエラルキーの権化ともいえるような所なので、とても重責を感じました。女性の私が男社会で働く上で弱点もあるし、つまずきもあるけれど、でもそこから逃げずに失敗は失敗として受け入れ、失敗に向き合ってきたからがんばれると思えた気がします。そういう意味では結果も出せたのかな、と今振り返って思います。

その後、ニュースキャスターを兼務するようにと突然言われました。なぜアナウンサーでもない私たちがキャスターを担当していたかというと、大きく分けて2つ理由があり、1つは経費節減です。アナウンサーが10分ぐらいのニュースを読む際は、デスクの人がどんなニュースを入れるかを決め、アナウンサーが読むという具合に通常は2人必要なのです。でも、私たち記者はニュース項目を考える事も読む事も自分で担当し、2人分の働きができるという意味で会社的に経費が抑えられます。2つ目は、「ミヤネ屋」という番組のニュースコーナーは、クセの強い宮根さんとニュースの後にやりとりをしなければならず、ニュースを理解している人が受け答えしたほうがいいだろう、という大きな意味があるからだと思っています。

私はアナウンスの学校にも通ったこともなかったので、1週間、付け焼き刃のように大御所の大先輩アナウンサーからいろいろ教えていただきニュースを担当することになりました。

キャスターになって半年後ぐらいから「ミヤネ屋」でニュースを読むようになり、そのスタートがちょうど東日本大震災の直後の4月からでした。その頃の計画停電を覚えてますでしょうか?電気が足りないので区域ごとに、この時間は停電します、みたいな事をやっていました。

私は元々喉が弱いのですぐ喉が痛くなり、風邪を引くとすぐ声がガラガラになるんです。そして震災のあった年の7月ぐらいにすごい風邪を引いて声がガラガラになったんです。それで宮根さんに番組内で「下川さん、声どうしました?はるな愛みたいな声ですね(笑)。」と言われて。「すいません、ちょっとクーラーで喉がやられまして、お聞き苦しくてすいません」みたいな話をしたら速攻で苦情の電話がかかってきました。その苦情の内容は、「計画停電をテレビ局も呼びかけているのに、この女はクーラーを点けたまま寝てるのか?」というような内容でした。すごい数のメールや苦情の電話がかかってきて驚きました。もちろん、私は自宅でクーラーを点けたまま寝ていたわけではありません。テレビ局はかなり機材が多いので部分的に冷やさなければならず、座っている位置によってとても寒い場所と暑い場所があります。私がたまたま座っていた席はとても寒い席で、疲れていたこともあり風邪を引いてしまったからなんです。でも、そんなことは視聴者のみなさんはわからない。その時、私は自分が意図していない伝え方によって、いろんなふうに伝わってしまうんだなあ、ということをとても実感しました。やはり言葉って難しいし、自分が意図したとおりに伝わるわけではないんだなあ、と思いました。テレビじゃなくても人とコミュニケーションをとる時、自分が思って発言したことが相手に思ったように伝わるとは限らないし、丁寧に接しないといけないし、客観的に見ないといけないと思い、とても勉強になりました。

今、火曜日にコメンテーターをしている「スッキリ」という番組は生番組なのでちょっとした打ち合わせは事前にあっても、急にコメントを求められて話さなければならない時もあります。ですので、思ったことが思ったとおりには伝わらない可能性がある、という事を常に頭に入れながら話さなければならないと思っています。それは、これまでの失敗から学んで考えるようになったので、今となっては良かったなと思っています。

失敗を恐れず、失敗と向き合うことの大切さ

もちろん、失敗はしないほうがいいのですが、失敗した時にどう向き合うか、どうとらえるか、ということがすごく大事なのではないかなと感じます。自分が失敗したことを思い出し、人の失敗に寛容だとか、失敗して落ち込んでいる人にどんな言葉をかけたらいいのかとか、そんな事も失敗しないと学べなかったと思います。失敗を失敗として終わらせるんだったら意味がないかもしれないけれど、失敗をいろんな糧にしていくことが重要なんじゃないかなと思います。

みなさんもこれからいろんな道に進み、その先にはいろんな失敗があり、挫折もあるだろうと思います。でも、それは絶対自分にとってプラスになると思ってほしいのです。自ら進んで失敗しましょうとは言いませんが、失敗を恐れずにいろんな事にチャレンジしてもらいたいと思います。そうすることで、すごく成長すると思います。

小さなことから大きなことまでいろんなレベルの失敗や挫折があると思います。特に若いうちは、いくらでもリカバリーが効くし、私が若い頃の失敗もいろんな人がフォローしてくれたことでプラスに感じられるようになった部分もあるので、失敗を恐れずに、失敗した時にプラスに思えるように、ぜひ、がんばってほしいなと思います。私もみなさんの倍ぐらい生きましたが、まだまだ、これから先も長いと思うので、これから先の失敗もがんばって乗り越えていきたいなと思っています。

以上です。ありがとうございました。

質問があれば気軽にどうぞ。些末なことでも、ミーハーなことでもお答えできる範囲でお答えしますので。

【学生A】
お話を聞いていて気になったのが、私はニュースを見ていると「フン」と怒ったりとか感情が出てしまうのですが、下川さんはニュースを読んでいて感情が出ることはないのですか?

【下川さん】
感情は出ますよ。出ますが、それを出していいものと、出してはいけないものがあると思っています。ニュースを読んでいる時は淡々と読んでいますが、コメントする時はちょっと別で。それはおかしいと思った時は、そう思いながら読みます。ニュース自体を原稿として読む時は、ある意味、自分の感情の押しつけになってしまう部分もあるので、わりとフラットに読んで伝え、視聴者の方がどうとらえるかはいろいろだなと思っています。ただ、私はもともとアナウンサーではないし、自分でニュースを選んで自分で伝えていたから、おかしいと思えるニュースには自分の気持が滲んでいたと思います。アナウンサーはすごくフラットにきれいに伝える事が仕事なので、その辺が私の仕事と違うと思います。ちなみに、最近どんな事に怒ったのですか?

【学生A】
私の誕生日は地下鉄サリン事件の日と同じなんです。そして、最近、その死刑のニュースが話題となっていますが、海外の国から死刑制度が非難される意味がわからないので、最近もどかしく思います。

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【下川さん】
なるほど。今、世界的に死刑制度を廃止している国がとても多いです。今回、オウム真理教の死刑囚7人が死刑になりましたが、死刑になる前に、いつ、どういう形で死刑囚13人に死刑が執行されるのか?私たちも報道する上で準備をしなければならないと考えていました。

1つの事件で13人の死刑囚が存在するというのは、今までの日本にはなく、世界的にもほとんど例がありません。同じ事件の死刑囚は、同じ時期に死刑を執行しないと不平等ですし、残された人たちの心の問題もあります。基本的に、1人とか3人の場合は一度に執行するのが原則ですが、13人一度に執行するのは世界的に死刑を廃止する国が多い中で、日本はなんて国なんだ、と思われるのを法務省はとても恐れています。
今回、私は麻原は先に執行されるだろうと思っていました。たぶん最初のうちは2、3人で、一番の首謀者とか一番古い事件で一番最初に死刑判決が下った数人をまず執行してからではないかと思っていました。でも、一気に7人というのはかなりの衝撃で驚きましたし、すごい決断だなと思いました。現在は、女性の上川さんという方が法務大臣ですが、7人という数はとてもストレスになっているようです。当時の教団ほどの力はないけれど、教祖や教団幹部だった人たちを死刑にしたことは、とても勇気のあることだし、ストレスになることだと思います。

死刑囚たちも、今回の執行をいろんな形で知る可能性がありますし、平等性という問題もあり、残された人たちの心のケアという問題もあり、大臣の心のケアという問題もあります。日本の死刑制度は世界的に特殊な部分があるので注目されています。私も今回の件で難しい判断がいろんな形であることを知り、勉強にもなりましたし、いろいろ考えさせられました。

【松澤先生】
法務省の役人が"そろそろ"と言い出してから執行するのですか?

【下川さん】
そうです、法務省です。オウム真理教の一連の裁判が今年1月に全部終結し、制度上いつ死刑が執行されてもおかしくない状況ができたら、平成の事件は平成のうちにという思いが法務省の中にはありました。いつ執行してもおかしくないように法務省としては書類ができています。その週の火曜日に法務大臣は印鑑を押していますが、印鑑の効力は5日間です。土日は絶対に執行しないので、火、水、木、金でギリギリとなり、そういう意味で執行は金曜日だったのかなと思います。

【松澤先生】
昔、公明党の法務大臣だった人で「私は死刑を執行しません」と言った人がいましたが、上川法務大臣が選ばれた時に死刑は執行しないと言わなかったのですか?

【下川さん】
上川法務大臣は去年の12月にも印鑑を押しています。今回の大臣は死刑執行を躊躇しない人だということは、事前にわかっていましたし、9月に自民党総裁選の後に内閣改造があるといわれている中で、たぶん上川法務大臣のうちに執行するのではないかといわれていました。

【学生B】
警視庁記者クラブのキャップとして男性の部下をまとめて引っ張っていく場面がたくさんあったと思いますが、女性としてまとめていく時にやりにくさを感じた出来事とかはありますか?

【下川さん】
実は、やりにくさはそんなになく、逆にまわりの男性社員に嫌だなと思われていたかもしれません。私がキャップの時、クラブ員10人中5人が女性の時がありました。しかも、サブキャップも女性でした。男性社員は自分たちに生理がくるのではないか、というほどざわつくぐらい女性が強く見られていました。サブキャップの女性社員は男っぽい感じだったので父親キャラを演じさせ、私は母親キャラを演じることで役割分担をして、叱る役と受け止める役という感じでバランスを取っていたので、男性社員をまとめにくかったことはそんなにありませんでした。

でも、10年ぐらい前キャップをしていた時に、一番年下の20代の男性社員たちは先輩社員から仕事的に無視されることに不満を感じていました。自分が知らない間に仕事の何かを決められていた時とか、自分がのけ者になっていると文句をいう男性社員が多かったのです。でも、事件の取材をしていると10人全員が周知できない場合もあり、大事件のスクープがあった時、その一番年下の男性社員たちには知らせないままいろんな事を進めて報道したことがありました。そしたら、自分たちは仲間なのに知らされていない、ということですごくヘソを曲げてしまったのです。

ある日、20代の男性社員の1人が、真冬の夜回り取材の最中に寒い屋外から3時間ぐらい不満の電話を私の自宅にかけてきたんです。私もいろんな仕事をやらないといけないのに、その電話は切れませんでした。彼の携帯電話の電池が切れても、かけ直してくるんです。でも、そうやって彼の話を聞いてあげたことで彼はとても反省し、彼自身の気持ちを落ち着かせました。時間が経ってから振り返った時、彼自身が大人げなかったことに気づいたと思うのです。彼がキャップとして現場を仕切る立場になり、「あの時、下川さんとかほかの先輩がいかに辛抱強く耐えてくれたかわかりました。自分もなるべくそういうふうにします」と言われた時、女のキャップだからできた事があったようにその時は思いました。ですから、引っ張りにくかったということはあまりなくて、どちらかというとメリットのほうがあったと思っています。

やはり、男性と女性は違うと思います。私は生理痛が重かったので、生理になると朝から不機嫌で生きているだけで精一杯でした。若い男性社員は、私の機嫌が悪いのは自分のミスが原因かなのかな?と勘ぐったりしてかわいそうなので「私が不機嫌なのはあなたたちのせいじゃなくて、生理痛だからです」と一斉メールしたんです。それで、一旦、落ち着いたのですが、その後、他社の男性に会った時に「生理だから機嫌悪いんですね」と言われてとても怒って。若い男性社員たちに「私はグラブ運営を円滑にするために個人情報を開示しているのに、他社の男性社員に言うなんてありえない」と激怒したことがありました。そんな男女の違いみたいなところでコミュニケーションのとり方を工夫したことはありました。今は、それが良かったと思っています。

【学生C】
良かったらおすすめの本とか映画とか、いろんな場所に行かれたと思いますがおすすめの場所とか教えてください。

【下川さん】
さっき舞踊学専攻の学生さんが映画のグレイテストショーマンの曲を踊っていましたね。グレイテストショーマンは最近見た映画の中でとても感動した作品です。私は火曜日に「スッキリ」という番組に出ていまして、その中で海外アーティストがゲストで出演するウエンツ瑛士くん担当の「WEニュース」というコーナーがあります。そのコーナーに、グレイテストショーマンの「This is Me」を歌っている歌手が出演し、目の前で歌ってくれたので感激しました。グレイテストショーマンがものすごく最近のおすすめです。

映画の「ショーシャンクの空に」は観ましたか?あんな考えさせるものとか、「カサブランカ」という映画が好きです。昔のイングリッドバーグマンとかハンフリーボガードとか1950年代のスターなんですけれども、戦争中のいろんな悲哀を美しく描いているんです。白黒映画だけれどもすべてが美しくてロマンチックな感じと、戦時中のいろんな情勢みたいなのが見事にマッチして私はすごくおすすめです。

旅行に関してですが、私は一時期、みなさんの年代の頃、卒業旅行とか海外旅行などにハワイを含めてよく行っていました。でも、最近、日本は素晴らしいなと思い、行ったことのない所に行きたいと思っています。東京オリンピックに向けて、いろんなところが紹介されたり、クローズアップされたりしていますが、本当に日本ってこんなにバラエティに富んでいて美しい所がいっぱいあるなあ、とすごく実感しています。最近、西日本で大雨被害がありましたが、私は岡山県や瀬戸内海の日本らしい穏やかな島々がとても好きで、毎年、訪れています。東京にいると感じられないことが感じられるという意味で、海外に行くより手軽に味わえるし、お金もそんなにかからないのでいいかなと思っています。

【松澤先生】
下川さんは本を出版していますね。

【下川さん】
そうです。「テレビ報道記者」というタイトルです。今日、持ってくればよかったですね。

【松澤先生】
下川さんは元々は政治の記者をやりたかったんですか。

【下川さん】
そうです。1993年に、1955年からずっと続いていた自民党から政権が変わった時の選挙がテレビを意識し始めた選挙で、今の政治家がテレビを意識するきっかけとなりました。例えば会見時とかの背景に政党の名前を入れたりとか、記者会見をする時の後ろのカーテンの色で印象変えたりとか、そういう事の走りをやったのが細川政権が誕生した時の選挙だったり、その後の細川政権そのものでした。私は、ちょうどその頃学生で、この先、テレビが政治を身近にすることがあるかもしれない、と思い始めて政治の記者に興味をもちました。

【松澤先生】
記者とキャップはなにが違うんですか?

【下川さん】
記者の中で年次がいって経験を積むとキャップになります。

【松澤先生】
下川さんは政治の記者がやりたかったのですか?

【下川さん】
はい。ですから警察なんてまったく興味がなかったです。でも、いろんな事件の取材をすると、誰にでも起こりえたりする身近なことだと思います。事件はもちろん災害とかもそうですが、今、我々は知らない人のことを報じているけれど、明日は自分の身内が対象になるかもしれないと。そういう意味では、事件を視聴者の方に身近に感じてもらう事が、同じような犯罪を起こすことなく、災害を知るためにとても重要なことだと思います。そういう意味で報道はとても大事ですし、責任をもってやらなければいけないなと思っています。私たちは命を守る報道を何よりも大事にしています。

災害報道は災害のタイプによって気をつけなければならないことや、呼びかけなければならないことが異なります。そういう事をわからせてくれたと言うか、それを教訓にしなきゃいけないというのが3.11の東日本大震災で、やはり海沿いで大きな地震が起きた時は津波に対する警戒を真っ先に呼びかけて、とにかく高台に逃げてくださいというのがメッセージだと思います。

例えば、この先、必ず起こるといわれている首都直下地震の場合、東京都内で起これば人口密集地の火事というのが一番恐れなければならないことといわれています。そんな時、火災に対しては、火事の風上に逃げてくださいとか、空き地や公園に逃げることを示すことが大事です。要は、「災害」とひとことで言っても、場所や性質によってその状況に適した注意の仕方があって、我々の呼びかけ方に変化をつけるとか、そういう事がとても大事だと感じて報じるようになっています。私達が責任をもって実行しなければならないことは、"とにかく命を守る"ということをプライドをもってやらなければならないと感じています。ちょっとそういう目線でたまにニュースを見てもらうと興味がわくというか違ってくるかなと思います。
どうもありがとうございました。こんな若い人たちと触れ合える機会があってうれしかったです。
がんばってください。

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